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消えた成田氏の謎とは?Ⅶ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

今年最後のブログ更新となりましたが、今年も不安が高まる1年でした。生活面では米を始めとする異常な物価上昇、5ヶ月間も

続いた猛暑や異常気象、高齢化と人口減少による人手不足、GDP世界5位に転落する日本の国力の低下、国際面でもトランプ政権

誕生による混乱、お隣り韓国の政情不安等々、どこを見渡しても不安だらけの1年でした。来年は、良い年になるのでしょうかね?

 

 さて前回は、新井白石の「藩翰譜」と、作者不明の「旅宿問答」を比較することによって、成田四家伝説の成立時期と作らせた

人物を特定させて頂きました。成田顕泰・親泰父子の時代(1500年代)である、が私の結論でした。

流布の目的は、領民支配の正当化のためでした。(よくある話しです。)ところが面白いことに、この成田四家伝説が非常に良く

出来たお話しだったため、熊谷市、行田市の領民達が深く信じ込んでしまったことにより、その影響が、長く現代まで続くことに

なってしまったのでした。具体的に事例を見て行きましょう。

 

まずは新井白石編纂の「藩翰譜」です。「藩翰譜」の成立(完成)は、元禄十五年(1702年)ですが、この時点で成田氏は既に、

改易されています。ですから、成田家を含む各大名家の家伝の収集は、実際には慶長五年(1600年)~延宝八年(1680年)の

間に行われたとされています。つまり江戸前期の情報である訳です。この「藩翰譜」、聞き書きが基本でしたから、各大名家に

伝わる家伝を、単に聞き書きしただけのものでした。当然嘘や誇張、虚飾が多い家伝内容になっている訳です。ところが高名な

朱子学者である新井白石が編纂した、ということで、この「藩翰譜」の内容に、世間的な権威付けが、なされてしまったのです。

まあ、新井白石の意図から外れて、嘘が真になってしまったのですね。つまり、新井白石先生が言っているのだから、成田四家

伝説は正しいのだろうと、広く認識されてしまった訳なのです。しかしこの成田四家伝説にも弱点がありました。それは、平安

末期(保元物語)の記述から、ポンと飛んでいきなり室町後期成田顕泰の記述になっている点なのです。鎌倉・室町期の記述が

無いのですね。この弱点を克服するために作成されたのが、今回掲示の成田(氏)系図(写本、国立公文書館蔵)なのです。

成田系図は、貞享元年(1684年)に書かれた、とされていますので、「藩翰譜」の家伝調査を受けてから、成田藤奏体という

人物によって書かれたのだろうと考えられます。(右端の頁の年号です。)※敢えて藤原氏を強調か? 私は、成田氏の家伝が

公表されるのを受けて、単なる伝承部分だけではなく、不明部分を系図として補強・体系化しようとして、成田(氏)系図が

作られたのだろうと、考えています。

 

 では最初の左頁から見て行きましょう。「藩翰譜」の伝承では、関白道長から始まっていた系図の最初が、成田系図では更に

遡って、何と大化の改新の藤原鎌足から始まっているのですね。まあ虚飾が拡大したということでしょう。以降、成田氏の系図

とする藤原氏の系図が続くのですが、藤原忠基から怪しい?人物となり、四代後に初代成田氏となる成田助隆が登場しています。

その後成田助隆の子の代の記述になるのですが、成田太郎、別府次郎と来て、その後は何故か別府氏代々の記述が続きます。

まあ別府氏が成田氏とともに、戦国末期まで残ったからなのかも知れませんね。で、しばらく別府氏が続いて、ようやく左から

2番目掲示の左頁に、奈良三郎の名と、その子供の名が登場していますね。右頁の頼重とは、まだ別府氏の部分で、安楽寺の

墓石で有名な、別府頼重か?と思われますが、あらかじめ知っていた別府氏の有名人を、当てはめたのかも知れません。

同様に、享保年間(1716~35年)に奈良村在住の外記という村民が、妙音寺境内に「奈良三郎の墓」を建立したのも、この

成田(氏)系図の影響によるものと考えられます。以降、系図の名前の羅列が延々と続きますが割愛します。

私が鎌倉成田氏の祖だと考える成田七郎助綱の名も、成田四郎助綱として登場していて、この写本を写した人物が余白部分に、

吾妻鏡に出ている成田七郎助綱のことではないか?と、但し書きを付けたりもしています。(勿論考慮済みですよ。)

そして右側掲示の2文は、作者の巻末言になり、成田氏家伝を復唱している文章なのですが、初代成田助隆の後の記述は、やはり

ぽんと飛んで、下総守成田顕泰、親泰父子のお話しになっているのでした。せっかく足りない人名は埋めたはずなんですけれど

ねえ、、、 結局この成田(氏)系図の段階では人名だけで、欠史部分の事績までは、埋めることが出来なかったようです。

そりゃそうです、鎌倉・室町期の成田氏について、江戸期段階では、残念ながら何の情報も無かったからですよ。何とか名前だけ

作って、系図を体系化した、というところでしょうかね。

しかし新井白石の「藩翰譜」が、世間的承認を受けたお陰で、この成田(氏)系図も、同様の承認を受けることになったのでした。

何故成田(氏)系図も、世間的承認を受けていた?と、判るのでしょうか? それは江戸後期編纂の、「新編武蔵風土記稿」の

記述を読めば判るのですよ。(次回へ)