いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。
年の瀬だというのに、すさんだ事件ばかりで、明るい展望がありま
せんね。国内だけではなく、海外も含めて来年は、今年に輪をかけて、更に酷い世の中になる予感ですよ。皆さん覚悟しましょうね。
前回までは、2度の系統断絶を経た成田氏が、長尾氏系の成田氏
になった成田顕泰・親泰の代(1500年代)に、領民支配の正当性
をアピールするために、保元物語の登場人物をベースとして成田
四家伝説が作られ、別府氏側の四家伝説として記録された文書が、
作者不明の「旅宿問答」である、とする私見を述べさせて頂き
ました。今回の掲示文書(国立公文書館蔵)の四家伝説部分です。
掲示部分の前後には、藤原不比等や道長を祖とする成田助隆への
系譜や、西別府村の丈六(安楽寺・九品仏堂)を舞台とした成田
四家を証明する巻物の話し、成田助隆が八幡太郎義家の叔父であったエピソード秘話(成田下馬)などが記述されています。更には、西別府氏独自の味付けと思われる、別府頼重の墓石を想起させるような、別府氏代々の墓や菩提寺も西別府にあるとの自慢話も
書かれ、逆にリアリティを感じさせる展開になっています。
東別府村の別府小太郎清重の、一の谷合戦での活躍についても触れていますから、これらの伝説が流布されたことによって、
保元物語や平家物語の講談が、別府村近郊で上演された際には、聴衆から、やんやの喝さいを浴びたであろうと思われます。
つまり琵琶法師や講談の上演によって、成田四家伝説は、領民にも真実として徐々に信じられるようになって行ったのでした。
こうして江戸期に入ると、新井白石の「藩翰譜」編纂のために、各大名家の家伝調査が実施されます。成田家の「藩翰譜」
記載は、第12巻の下巻ですから、成田氏が江戸大名家であった期間(1600年~1622年)における家伝としての位置づけだと
思われます。「藩翰譜」における成田家の家伝とは、藤原道長から始まり、孫の藤原任隆?(新井白石は判らないと、)と
来て、ひ孫の初代成田助隆の子、成田、別府、奈良、玉井の四家誕生伝説と、「旅宿問答」とまったく同じ内容が綴られて
います。「藩翰譜」は基本聞き書きですから、室町後期から江戸中期まで、この成田家伝承は正確に伝承されて来たようです。
また白石自身も括弧書きの中で、四家伝承の信ぴょう性については、吾妻鏡・平家物語等で調べて、納得していますね。まあ
白石も、騙された!、ということです。 ※伝承家伝の方が、古文書類よりも古いハズ?、と考える、言わば錯覚ですね。
更には「藩翰譜」の記述でも、成田四家誕生の記述から次は、何故かぽんと飛んで、忍城に移って来た時代(室町後期)から
始まっている訳です。この点も「旅宿問答」とまったく同じなのです。結局成田家家伝には、鎌倉期~室町期にかけての記憶が
全く無いことが判るのです。そりゃそうです、2度に渡り、成田家の系統が断絶していますからね、判らないのは当然なんです。
また「藩翰譜」の成田氏家伝には、「旅宿問答」の四家伝説にはあった、別府氏関係の丈六(安楽寺や九品仏堂)の伝説などは
一切書かれていません。何故なら新井白石は、直接成田家から聞き書きしているからです。つまり骨格部分は同じ成田四家伝説
であっても、枝葉の部分は、成田氏、別府氏、奈良氏、玉井氏で、それぞれ違っていたことが想定されるのです。(でも、奈良氏
や玉井氏の四家伝説は、残っていませんけどね。)その意味で「藩翰譜」の成田氏家伝は、最も原初的な形での成田四家伝説を
伝えていたのかも知れません。
そうです、成田顕泰・親泰父子が創らせた成田氏家伝の祖型です。そしてこの「藩翰譜」の成田氏家伝でも、「旅宿問答」の
成田四家伝説と同様に、平安期の記述からいきなり室町後期の忍城時代の記述にワープしている訳ですから、元々の成田氏家伝の
祖型も、鎌倉・室町期の成田氏についての記述は無かったのだと、ハッキリ言うことが出来るのです。このことが私は、成田顕泰
・親泰父子の時代に成田家伝説が作られたことの、傍証になると考えています。また、奈良氏や玉井氏の四家伝説が残っていない
点も、成田顕泰・親泰父子が創った傍証になると思います。何故か?、成田顕泰・親泰父子の時代(1500年代)の武蔵国(成田氏
の領地)には、奈良氏も玉井氏も、既にいなくなっていたからです。武蔵国の奈良氏や玉井氏が活躍していたのは、鎌倉時代の
話しだからです。室町後期まで残っていたのは、成田氏と別府氏だけだったからなのです。私は鎌倉中期には既に、奈良村在住の
奈良氏や、玉井村在住の玉井氏は、それぞれ三河、伊予に領地を得て、一族が移住していたと考えていますけどね。(後ほどに)
ですから当然、鹿角の大湯氏(奈良氏)や讃岐奈良氏にも、四家伝説などは無いのですよ。これらの状況証拠から、成田四家伝説は、
成田顕泰・親泰父子が創ったと考えられる訳なのです。ではその後、この成田四家伝説は、どのようにして世の中に広まって行った
のでしょうか?(次回へ)

コメントをお書きください