· 

消えた成田氏の謎とは?Ⅴ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

物価高と物不足が続いています。今年の夏は米不足が発生しました。在庫は

あるハズなのに、何故か店頭から米が消えてしまいました。新米が出て、

値段が50%以上値上がりした後、コメ不足は解消しました。多くのモノが

値上りしているので、何となくうやむやになっていますが、原因は何だった

のでしょうか? これ、経済原則が働いたからなんです。従来から米は政府

の統制品でした。これまでの米価は、政府の補助金によって安く抑えられて

来たのです。ところが近年の物価上昇によって、原材料費や人件費が高騰

したため、従来の価格では米を出荷出来なくなってしまったのです。農家

自身が赤字で米を出荷することは出来ません。だから店頭から米が消えたのです。政府の統制も効かなくなった訳です。今まで低く抑えられていた部分

があるので、米価はいきなり50%以上も跳ね上がった訳なのです。つまり採算割れに追い込まれると、モノは出回らなくなる、ということなんです。

で、米と同様に統制されている商品に医薬品があります。現在多くの、それも安価だった医薬品(咳止めとか抗生剤等)が、

医療現場で不足しています。そりゃそうです、原材料費やコストが上がり、作れば作るほど赤字が拡大するような医薬品を、

製薬会社が製造し続ける訳がないからです。なので現在薬局の店頭から、ジェネリック薬が消えて無くなっているのですよ。

 

 さて前回までは、現在まで続く成田四家(成田氏、別府氏、奈良氏、玉井氏)誕生伝説は、成田顕泰、親泰父子の時代

(1500年代)に創作されたものだという考えを述べさせて頂きました。その理由は、成田氏の家系が、鎌倉期の家系から

、その後の安保氏系の家系と、2度も断絶していたからなのです。3度目の成田氏を引き継いだ、長尾氏系の成田顕泰、親泰

父子は、山内上杉氏の家臣として勢力を拡大したため、領民支配のために、新たな成田氏の家伝・家譜の整備が必要になった

から、なのでした。ですから家伝の根幹部である成田四家伝説は、江戸期の成田氏系図や成田記が作られた時点で、同時に

作成されたものではないのです。そのことは、江戸前期の編纂である新井白石の「藩翰譜」の成田氏の条に、成田四家伝説が

既に書かれていることからも明らかです。

藤原関白家を祖とする家譜と、成田、別府、奈良、玉井の兄弟伝説は、古く室町後期から伝承されて来た家伝だったのでした。

もちろん口伝による伝承が中心でしたから、伝えられた子孫や地域によって、枝葉の部分は様々なバリエーションがあったハズ

です。そのひとつが今回掲示の「旅宿問答」(国立公文書館蔵)に記された伝承でした。これは別府氏系の四家伝承の一部です。

「旅宿問答」とは、永正四年(1507年)に書かれたとされる、少し怪しい?、問答体の雑談書で、武蔵国西別府郷の神職である

彦右衛門が、旅の宿で一夜を語り明かすという体裁で、成田四家や別府氏の由来について述べられています。1416年に起きた

上杉禅宗の乱について詳しく描かれているため、学術論文としては、歴史学者である山田邦明氏の論文などで取り上げられては

いますが、嘘かまことか?的な記述で、まあ歴史学術的には、無視されているような、作者不明の文書ではあります。

しかし室町後期の成田氏や別府氏が、領民支配のために、成田四家伝説を流布するための手段として書かせた?、として見ると、

「旅宿問答」の怪しさも妙に納得出来るものなのです。成田氏自らではなく、配下の別府氏の末裔?に語らせているところもミソ

ですね。第三者?に語らせることにより、伝説の信ぴょう性が増すからです。SNSでのステルスマーケティングの手法と同じ

ですね。ですから私は、別府氏(村)同様、奈良氏(村)や玉井氏(村)にも、誕生当時は、同様の四家伝説があったのだろう

と思います。しかしその後、奈良氏や玉井氏は、村からいなくなっていたので、奈良村や玉井村に四家伝説が伝承されることは

無かったのでした。このことは、江戸後期編纂の「新編武蔵風土記稿」の成田領の各村記述からも明らかです。

 

「旅宿問答」の成田四家についての記述を見てみましょう。成田四家が、藤原不比等(淡海公)から始まる藤原関白家(北家)

の子孫であることを延々と力説した後、その根拠として、「西別府村に「丈六」という大寺院があり(安楽寺と九品仏堂か?)、

その伽藍内に一尺五寸(約50㎝)の大黒像が安置されていたが、担いでいる袋の中から1巻の巻物が出て来て、この巻物には

この寺の開基の由来や、四家の由来について書いてあった。」のだそうです。ちなみに丈六(安楽寺・九品仏堂)の開基者は、

淡海公(藤原不比等)で、再興者が成田氏初代の成田助隆なのだそうです。また面白いのは、四家は成田氏が主で別府、奈良、

玉井各氏は従なのだろう、と思われがちですが、四家は「旦那」である上杉氏の家臣として対等であると言っている点なんです。

この記述から、室町後期の武蔵国の描写であることが判ります。でもそう言っているのが別府氏側ですからね、領内皆対等?

であると言うことによって、領国支配をし易くしているのだろう、とも思われるのです。

要は、「藤原道長の子孫である式部大輔藤原任隆が、武蔵国の太守(国司?)として下向して来て幡羅郡に住み、幡羅太郎と

呼ばれ、そのひ孫で成田助隆(八幡太郎源義家の伯父!)が出て、この助隆には四人の子がいて、次男行隆が別府氏となり、

三男は奈良、四男は玉井となった、」のだそうです。何故か長男については何も書いていません。作者が別府氏だからかな?

ある意味、成田氏をライバル視している、とも言えるかも知れません。私は、平安末期の成田氏が、既に断絶していたからだ

と考えます。つまり別府氏の系統の方が古いのだ、という自負からなのかも知れません。まああるいは、成田氏の断絶前の

本当の祖先が、箱田氏であることが、ばれてしまうのを恐れたのかも知れませんけどね。お隣り同士、色々あるのですよ。

この「旅宿問答」の成田四家伝説が代々引き継がれて、現代の熊谷史に至っているようです。江戸後期の「新編武蔵風土記稿」

に記述されている、西別府村の安楽寺の由来説明でも、この「旅宿問答」の伝説を元に引用されています。

また「旅宿問答」の語りは西別府村の者なので、何故か東別府村も、ライバル視しているようです。自分のところの丈六(九品

仏堂や安楽寺)については淡海公(藤原不比等)の開基であるとか、色々箔を付けて説明しているのですが、東別府村について

は、平家物語に登場している別府小太郎清重が出た村であることは書いているものの、さらっとした書き方だからです。なので

「旅宿問答」を読んでいた「新編武蔵風土記稿」の編者は、西別府村の丈六については、淡海公の創建だろうと認めていながら、

東別府村の香林寺(別府小太郎清重の創建)については、別府小太郎清重・義重父子の名前が、成田氏系図に出ていないので、

どうも怪しい、と言っている訳なんです。逆(成田氏系図が嘘)とは考えないのですね。その意味で「旅宿問答」による成田氏

家伝伝承の影響は、後代に至るまで非常に大きかったようなのです。

私はこの「旅宿問答」の記述が、成田顕泰・親泰父子が創らせた成田氏家伝の祖型なのだろうと考えます。つまり、元々口伝で

伝えられていた成田氏家伝を文書にまとめたものが、「旅宿問答」であろうと考えます。おとぎ話的な要素が、多数散りばめ

られている内容だからです。まあ別府村版ですけどね。なので「旅宿問答」の書かれたとされる年号が、敢えて成田顕泰・親泰

父子が生きていたと思われる、永正四年(1507年)になっているのだ、と思っています。(実際の作年は?、)

ではこのように作られた「旅宿問答」の伝承は、後代の成田氏系図等に、どのような影響を与えたのでしょうか?(次回へ)