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韓国で突然、尹(ユン)大統領が非常事態宣言を出し、数時間後には撤回!
する、という事件が起きました。尹大統領はそこまで追い詰められていた訳
なのですね。しかし結局は腰砕けになり、クーデターは失敗に終わりました。
トルコの時もそうでしたが、専制主義の国でなければ、クーデターは腰砕け
になるようです。まあそういう意味では、韓国も一応民主国家だった、という
ことでしょう。しかし命運の尽きた尹大統領が退陣する?、新しい韓国は、
再び強烈な反日政権になりそうですわねえ、、。米国のトランプ政権復活と
同様に、韓国も再び、反日文政権?の復活となりそうです。とほほ、、、
さて前回までは、伊藤一美氏の論文を元に、鎌倉後期に消えて行った成田氏の領地が、武蔵国でも鹿角でも、安保氏によって引き継がれて行った状況を、
見て参りました。 更にその後室町後期には、その安保氏系の成田氏も、長尾氏系統の成田顕泰の登場によって、鎌倉期の成田氏同様、再び歴史の記憶から消え去って行ったのでした。
ところがです、何度も消え去っていたはずの成田氏が、何故か江戸期に入ると、現在までも続く、万世一系の成田氏家伝として、
早くも登場している訳なのです。そのトップバッターは、江戸前期に新井白石により編纂された大名家の家伝集「藩翰譜」です。
新井白石の藩翰譜には既に、成田氏の家伝が綴られています。更に江戸後期には、成田氏系図、成田記がまとめられ、成田氏の
伝説が完成し、その伝説が江戸幕府編纂の「新編武蔵風土記稿」の記述にも引き継がれ、戦前には太田亮氏の「姓氏家系大辞典」
(NHK日本人のお名前のネタ本)にも受け継がれ、現代に至るまで熊谷市立成田小学校の校歌に名前が見られるなど、熊谷市や
行田市の歴史文化教育(郷土史など)に、大きな影響を及ぼしている訳なのです。
一体いつ誰が、このような万世一系の成田氏家伝を作り、広めたのでしょうかね? 我らが奈良氏等も、成田四家として関わって
いるので、非常に気になるところなのですが、私は「藩翰譜」を読めば、誰が成田氏家伝を作ったのか?が、ある程度推測出来る
と考えています。とその前に、何故成田氏に家伝(系図)が必要だったのか?、なんですが、それは国人領主による家伝の作成・
流布による、領民支配のためなんです。どこの馬の骨か判らぬ領主では、領民が納得しないからです。戦国期の特に新参領主には、
領民支配(年貢徴収)のための大義名分が必要だった訳です。ですから各大名家に伝わる家伝として流布されたのです。
江戸前期の「藩翰譜」は、新井白石が編纂した、当時の各大名家の家伝集です。基本聞き書きですから、多くの家伝の最初は壮大な
仮冒・虚飾ばかりである訳ですが、歴史がはっきりしている時代からは、比較的正確な記述になる傾向にあります。成田氏の家伝も
実は同様で、平安時代から始まる部分では、藤原道長の子孫であるとか虚飾が書かれている訳ですが、平安末期の記述で一旦終了
していて、次はいきなりぽんと飛んで、室町後期に成田氏が忍城に越して来た時代から、記述が始まっているのです。このことから
私は、現代まで続く成田氏の家伝を作ったのは、成田顕泰、親泰の時代だろうと判断します。家系が2度断絶しているので、鎌倉・
室町期の記憶が繋がっていないのです。そしてこの顕泰、親泰の時代に、本領を忍(行田市)に移して、成田郷(熊谷市上之)を
祖先の地と定め、菩提寺龍淵寺を建立(成田家時の建立ではありませんよ。)するなどしている訳なんです。
山内上杉氏の家臣として急成長したので、領民統治のために成田家の歴史(大義名分)が必要になったのでしょう。そこで最初に
作られた伝説が、先祖が関白藤原氏系統で、東国武士団の勃興期である平安末期に、初代の成田助隆が初めて成田を名乗り、子の
四兄弟がそれぞれ成田、別府、奈良、玉井を名乗ったとする成田四家誕生伝説だったのでした。この四家伝説は非常に良く出来た
伝説であったため、領民に広く、長く浸透して、成田氏の核心的伝説になって行ったのでした。伝説を作る上でタネ本にしたのが、
保元物語や平家物語でした。特に保元物語には、成田氏領となっていた、成田、別府、奈良、玉井、箱田、川上などの村名(全て
熊谷市内!)を冠する東国武士達が、物語りに何度も登場しているからです。そこで先祖は皆兄弟だった、という伝説を作り上げる
ことによって、広域での領民統治を、し易くすることが目的だったのでした。
別に四兄弟ではなく、箱田氏らも入れた六兄弟でも良かったと思われるのですが、同じ兄弟でありながら、次郎や三郎が二人いては
まずいだろう、ということで、太郎~四郎の四兄弟になったのでしょう。また敢えて箱田氏が入っていないのは、箱田氏の方が古く、
成田氏の本家だったからだろうと、私は考えています。(ばれたら困るから?)成田氏系図に箱田氏は、門司で戦死した親戚として
入っていますけどね。まあつまり、保元物語の登場人物を元にして、成田氏の家伝(系図)は作られたのですよ。
ということは、成田四家は、兄弟ではなかったのでしょうか? 私はそう思います。もちろん、隣り村同士ですので、縁戚関係は
あったかも知れません。しかし保元物語に、成田、別府、奈良、玉井、箱田、川上らの名前が戦闘場面で何度も登場しているのは、
兄弟だからではありません。私は荘園領主が同じだったからだ、と考えます。彼らの名前は姓ではありません、村の名前なのです。
保元物語の別府次郎や奈良三郎は、別府村の次郎さん、奈良村の三郎さんであり、名前もお互いの呼称に過ぎないのです。大河
ドラマで藤原道長のことを、三郎と呼んでいたのも同じです。同様に北条義時は、たしか小四郎でしたよね。
また、それぞれの村は全て隣り同士で、熊谷市内の一部である訳です。まだ平安時代ですから荘園領主が存在しました。ですから
これらの村々の荘園領主は、たった一人であったと思われます。またどうして彼らは、保元の乱の際に、京都に居たのでしょうか?
都から遠く離れた東国ですよ。武蔵国から徴兵された訳ではありません。そうではなく、各村ごとの租税として、荘園領主の私兵
として京都警護の任に当たっていたのです。【ちなみに当時の幡羅郡(大里郡)は太田荘と呼ばれ、八条院領(皇室領)でした。】
税は村単位ですから、兵の名も村単位で呼ばれていました。警護団の団長は源義朝だったとは思いますが、雇い主は荘園領主(皇室)
です。ですから、成田、別府、奈良、玉井、箱田、川上村の各人は、同じ組で後白河天皇方(VS.崇徳上皇方)として、一緒に働いて
いた訳なのですよ。ですから当然、保元物語では、皆同じ場面で登場している訳なのです。保元の乱当時、彼らは、それぞれの村
ごとに武士団を結成していた訳ではありません。単に村税としての兵役に従事していただけに過ぎません。ところが保元の乱後は
荘園領主(皇室)からは褒美をもらい、更に保元物語の語りでは、全国的にも一躍有名な存在になってしまったのでした。
(まだ書物の保元物語ではなく、琵琶法師による口演・流布でしたけどね、琵琶法師は、言わば当時のマスコミなのですよ。)
そこで味を占めた彼らは、自分の村に帰ってから、武士団を組織するようになったのです。多分、農民をやっているより美味しい
商売だと思ったのでしょう。こうして村ごとに武士団が形成されるようになって行きました。私はこれが、成田四家誕生の正直な
姿だろうと思います。そして成田顕泰・親泰父子は、この物語の登場人物を、自分たちの祖先として取り込んだのでした。
さてこうして成田顕泰・親泰の時代に作られた成田氏の家伝(系図)の原型は、その後どのように変化して行ったのでしょうか
ね?。(次回へ)

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