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消えた成田氏の謎とは?Ⅲ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

兵庫県知事選挙が終わっても、マスコミも巻き込んだ混乱は、案の定今も続いているよう

です。斎藤知事の当選当初は、反対派県議が知事にお詫びだとか、選挙前から再選される

状況は明らかだった?だの、マスコミは新知事への提灯記事を流していた訳なんですが、

PR会社による選挙PR費の支出が判明したことによって、再び混乱が起きていますわね。

まあステルスマーケティングと同手法の、ステルスSNS選挙運動ですね。祭りの熱狂ムーブを作り出すマーケティング手法です。そもそも日本の自治体選挙などは、低調が当たり前なんです。誰が首長になっても、ほとんど自分の生活に影響が無いからです。もし兵庫

県民が自治体選挙に本当に熱心であるのなら、町内会の役員選挙にも、熱心であるハズ

ですが、全然熱心じゃないですね。結局今回の選挙では、候補者の政策など実はどうでも

良くて、県民は「真実!」と言う名の、祭りの熱狂を求めただけ、じゃないですかね?

ステルスSNS選挙を是正するためには、SNS発信を禁止するのではなく、選挙においては

SNS発信の匿名性を排除すべきと考えます。意見があるなら、名前やIDを名乗って発言

すれば良いのですよ。匿名だから、デマ情報を拡散させる愉快犯が増えるのです。一票に責任を持つ選挙においては、名も無き一般市民?など、存在しないと思いますけどねえ。

 

 さて前回までは、伊藤一美氏の論文「東国における一武士団」を元に、鎌倉期から

続く成田氏の領地を、鎌倉御家人の同僚であった安保氏の庶流が、徐々に獲得していく

過程を見て参りました。更に暦応二年(1339年)には遂に、成田姓を名乗り始めたの

でした。結局成田氏は、安保氏に乗っ取られてしまったのですかね? ここから先は、

成田氏伝説についての、私の仮説・推論になります。

 

 まずは何故、成田を名乗り始めたのが暦応二年(1339年)なのか?、なのです。文保二年(1318年)は少し早すぎる

としても、正中二年(1325年)には、安保基員の父である安保信阿行員は、成田氏を名乗りたければ、名乗ることは可能

だったからです。何故ならこの時点で安保信阿行員は、成田郷の地頭職を、既に保持していたからなのです。

しかし行員は、成田を名乗りませんでした。何故か?、成田郷にも鹿角にも、成田氏の末裔がまだ生存していたからです。

建武五年(1338年)に鹿角の成田頼時が北畠顕家と共に、討ち死にしたのでようやく翌年、子の安保基員は、成田を名乗り

始めているのです。つまり成田氏を気遣っているのです。決して領地を奪い取った訳ではないのです。成田家が弱体化し、

跡継ぎがいなくなったので、元々親類同士であった安保基員が、成田氏を引き継いだろうと、私は考えるのです。

まあもし、成田頼時の南朝方が勝っていれば、安保基員は、成田氏の領地を頼時に返したかも知れない、とも思いますけどね。

時代は南北朝期ですからね、北条方に付くことは無くなったにせよ、武士にとっては南朝、北朝、どちらでも良かったのですよ。

またこの南北朝期には、領地を得た土地の名を姓とする東国武士団の風習など、当の昔に絶滅していましたから、安保基員は姓を

変える必要など、さらさら無かったのです。それでも敢えて姓を変えたのは、成田氏をおもんぱかってのことに違いないのです。

更に、姓を成田に変えたもう一つの理由も存在します。それは鹿角四頭(安保氏、成田氏、奈良氏、秋元氏)に共通する伝統風習

なのですが、姓は村ごとに違っても、本名は別に存在すると言う風習です。つまり、安保基員は成田村を領有したので、本名成田

を継承した訳なのです。その意味で、武蔵国成田郷と奥州鹿角郡は、深く繋がっていたのだ、とも言えるかも知れません。

まあもっとも、安保基員としては、安保氏の分家に甘んじるよりは、成田氏を継承して自分の一家を打ち立てたいという野心も、

当然あったかも知れませんけどね。

更には、安保基員が継承した成田氏領は、当然鹿角だけではありません。既に父親安保信阿行員の代には、武蔵国騎西郡成田郷の

地頭職や、箱田村、平戸村の領地を得ていたことが書かれています。(安保信阿譲り状案、八坂神社文書) 箱田村とは、現在の

熊谷市箱田地区のことで、源頼朝の時代に、成田七郎助綱が、箱田小太郎広貞(広能)の、長門国厚狭郡移封(惣社八幡宮社伝)

により、新たに得た、本領上之村(熊谷市上之)の近隣領地ですね。また平戸村も、箱田村の東隣り、現在の熊谷市平戸地区の

事です。まあ成田氏としては、両村とも本領の隣接地である訳です。つまり正中二年(1325年)の時点で、成田氏の外堀は既に

埋まっていた訳なのです。成田氏に残っていた領地は、本領である成田郷成田村(熊谷市上之地区)だけになっていたのでしょう。

 

 そして遂に暦応二年(1339年)、子の安保基員の代には、成田氏の本領も手中に収めていたのでした。(成田基員譲り状案)

この譲り状案からは、成田氏の誰から継承したのか?の記述もあるようです。成田四郎太郎秀綱跡と、成田五郎左衛門入道跡から

だそうです。死去した成田氏本家の最後の当主だったのでしょうね。でも一次史料には名前がありながら、何故か成田氏系図には、

名前が見当たりません。成田氏系図の似た名前では、成田家綱の官名が五郎左衛門尉であるようです。この家綱は、成田氏系図上

では、中興の祖と言われている成田家時の父になっています。また成田家時の子とされる成田資員の官名も、五郎左衛門尉である

ようです。この成田資員の兄弟には、成田家清がいて、呼び名は五郎四郎だそうです。何となく四郎太郎と似ていますね。つまり

どうも怪しいのですよ。成田氏系図のこのあたりが胡散臭いのです。私は当時の成田氏の当主は、代々五郎を名乗っていたと思い

ます。更には、成田家時とその前後で、成田氏系図の改ざん、即ち成田氏と後成田氏の接合作業が行われたのではないか?、と

考えています。

もっとも、安保基員が成田を名乗り出したのは、1339年ですから、成田氏系図で言うところの成田家時の時代とは100年程差が

あるんですけどね。しかしこの100年間に、成田家時、資員を挿入することによって、成田氏と安保氏系の後成田氏を繋いだ

のだと考える訳です。私は、熊谷市立成田小学校の校歌にもなっている成田家時や成田資員は、架空の人物だろうと見ています。

その代わり、消えた人物もいます。その名前は、成田正等と言います。彼は、成田資員の子、成田顕泰の養父とされる人物です。

最近の説では、「文明明応年間関東禅林詩文等抄録」という史料に、自耕斎という人物の名があり、岩付左衛門丞顕泰公父故金吾

法諱正等と記されていることから、成田顕泰の養父成田正等という人物に比定されているのです。文明・明応年間ですから、彼は、

1469年~1501年の間の人物と言う事です。また彼は、岩槻城を築城した、とも言われています。Wikiでも消されていませんから、

多分有力説なのでしょう。1500年代の成田顕泰の養父としては、妥当な年代だと思われます。

成田正等は当然、安保氏系の成田氏だったと思われますが、室町幕府の衰退とともに、成田氏自体も衰退していたと思われますの

で、正等自体が良く判らない存在であったと思われるのです。そして成田顕泰とは正等の養子で、本来は長尾氏系ですので、成田

氏の万世一系を望む江戸期の成田氏系図の作者達は、養父である正等の名前を消したのだろうと思われるのです。(成田正等を

知っていればですが、) いずれにせよ関東の成田氏は、この成田顕泰の時代(室町後期)からようやく、歴史の舞台に姿を現し

ますから、神話・物語りの時代から、歴史時代へと突入して行ったのだと、言える訳なのです。(次回へ)