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消えた成田氏の謎とは?Ⅱ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

米国でのトランプ勝利に続いて、兵庫県知事選で斎藤元彦さんが勝利しました。同じ構造ですね。あること無いことごちゃまぜに

して、怪しい情報をネットで拡散させ、ネット民を熱狂トランス状態にして選挙に勝利する、というやり方ですね。怪しい情報は、

蜜の味なんですよ。石丸伸二さんと同様のやり方です。彼らの敵は大手マスコミで、煽るテーマは「義憤」です。

今回の県知事選でも、「義憤」がテーマだったと思いますよ。扇動者は立花孝志さんで、煽りに乗っかったのが、兵庫県民でした。

さて、祭りの後の熱狂の去った兵庫県政は一体どうなるのでしょうかね? 米国同様、虚しい混乱が待ち構えていると思いますよ。 

 

 さて前回からは、南北朝期の合戦を最後に、消息が途絶えてしまった鹿角の成田氏の行方について、伊藤一美氏の安保氏研究の

論文「東国における一武士団 1972年」を元にして、鎌倉後期から南北朝期にかけて、既に衰退していた成田氏の家名を残すため、

安保氏が徐々に成田氏の領地を吸収して行ったのだ、とする仮説を述べさせて頂きました。まあ立場を変えると、安保氏が成田氏を

乗っ取った、とも言える訳なんですがね。 このように考えると、鹿角に成田姓が残って行った理由が良く理解出来るからなのです。

つまり、室町期に、武蔵国成田氏領と鹿角の盟主となった安保氏が、自らの庶流となった成田氏の名を、敢えて残したのですよ。

もちろん多分本心には、安保氏支配の伝統と権威を守るため、寛容さをアピールするという側面もあったとは思いますがね。

まあもっとも、その安保氏(大里氏)自体も、戦国末期の九戸の乱で、大湯氏(奈良氏)とともに滅ぼされてしまい、鹿角由来記

が書かれた江戸期には、鹿角四頭の面々(成田氏、安保氏、奈良氏、秋元氏)は、既に誰も残ってはいなかったんですけどね、、。

 

それでは論文の方を見て行きましょう。伊藤氏によると、承久の乱で勲功を挙げ、戦死した安保實光の跡を継いだ、安保実員の子

安保信員の代には、成田氏の成田家資(いえすけ)の娘を妻に迎え、その子安保行員は、成田氏の所領であるハズの、鹿角郡の

柴田村(柴内村か?)を相続しているそうなのですが、このことが後に、安保氏が成田氏を名乗るようになる契機であったそう

です。このことから何が判るのか?、なんですが、まずは武蔵国の安保氏本家と、遠く離れた鹿角の領地は、緊密に繋がっていた、

という事実なのです。さらには、成田家資(家助)と言えば、成田氏系図によれば、源頼朝の代に奥州合戦で勲功を挙げ、鹿角郡

に領地を得た、成田七郎助綱の子2人の内のひとりになります。(吾妻鏡の記述だと、成田五郎か成田藤次、多分成田藤次の方が

家資かな?) また同じ吾妻鏡の承久の乱では、奈良兵衛尉や、別府次郎太郎なども活躍していますよね。

この承久の乱で傷を負ったが生き延びて、跡を継いだのが、安保右馬允実員になります。その実員の子安保信員が、成田家資の娘と

結婚したとありますが、老婆と結婚したのですかね?、やはり成田氏系図の表示では、一世代分ぐらい?年代がずれていて、どうも

合わないのですよ。つじつま合わせがうまく行っていないように思えますね。

まあそれはさて置き、最も重要なのは、真ん中掲示の表で、成田氏の所領が徐々に安保氏に移っている状況を示している事です。

最初は先程の、文保二年(1318年)の鹿角郡の柴内村が、安保信員から子の行員に譲られている記述(安保家文書)からですが、

7年後の正中二年(1325年)には、安保信阿(行員)が、子の基員に、武蔵国成田郷の地頭職や箱田村、平戸村を譲っている記述

(八坂神社文書)があることです。武蔵国の成田氏本領の解体ですわね?、つまり鎌倉後期には既に、成田氏は衰退していた事を

示しているのです。だって、安保行員の代には既に、成田郷の地頭職や箱田村、平戸村を行員が領有していたということですから

ね。しかも鹿角郡の領地も、同時に動いていますから、武蔵国(本家)と鹿角郡(分家?)は連動していたことも判るのです。

成田氏や安保氏らの名前がたびたび登場していた吾妻鏡でも、成田氏の名前は、承久の乱から約30年後の建長二年(1250年)3月

1日の、閑院殿の再建造営の寄進者名簿に、成田入道跡 2本、との記述が最後で、以降は成田氏の名前は見られなくなります。

成田入道跡とは多分、成田七郎助綱の子、成田五郎が出家した後の次の後継者、と言う意味ですから、成田氏系図で言うところの

成田忠綱あたりになるのでしょうかね。ただ、吾妻鏡では既に、名前も判らなくなっていたので、「跡」としている訳です。

まあ鎌倉中期で世の中平和になり、戦もなくなったので、幕府としては御家人達(武士)を必要としなくなったからだ、とも言え

ますけどね。ちなみに、この寄進者名簿にはもちろん、安保氏の名前も出ていまして、安保刑部丞(實光)跡(=右馬允実員)と

ありますので、吾妻鏡の扱いは、成田氏と同様だったようです。玉井氏や別府氏など、懐かしい名前も登場しています。しかし、

奈良氏の名前だけが無いのですがね。武蔵国の奈良氏は、この時(1250年)既に、衰退していたのかも知れませんね。(あるいは

一族を挙げて、細川氏と一緒に三河へ移住したかな?) しかしいずれにせよ、この頃から既に、成田氏の衰退は始まっていたと、

見ても良いのかも知れません。

伊藤氏の論文に戻り、まずは文保二年(1318年)に、安保行員へ鹿角郡の旧成田氏領柴内村が譲られ、続いて正中二年(1325年)

には子の安保基員へ、成田氏本領の地頭職や箱田村、平戸村が譲られている訳です。なので当然、それより以前には、成田氏の

領地の多くは、鹿角も含めて、既に安保氏へと移っていたことが明らかなのです。

そしてとどめは、表の左端、暦応二年(1339年)の成田(安保)基員の譲り状(八坂神社文書)になるのです。南朝方の敗北に

合わせて、安保基員は成田を名乗るようになります。(もちろん成田氏系図には載っていません。)そして成田氏旧来の領地は

完全に、安保氏庶流であった安保(成田)基員の所領になっていたのでした。それではここから、成田氏についての、大胆な仮説

を展開してみましょうかね?(次回へ)