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このところの米国のトランプ人事を見ておりますと、いよいよ内乱の時が近づいて来ているように感じられます。一切の妥協を
拒否する姿勢だからです。民主主義とは妥協と我慢の産物です。今後の米国は、妥協を一切拒否する強権政治に向かうのだろう
と思われます。行き着く先に見えるのは、米国の内乱です。そしてその次は、第三次世界大戦ですかねえ?
前回までは、戦国末期には既に南部氏の領地になっていた鹿角郡において、現在に至るまでどうして成田姓や安保姓、奈良姓、
等、鹿角四頭の姓が多いのか?、の原因を探求してみました。何とか戦国末期の九戸の乱まで残っていた、安保氏や奈良氏系は
別として、南北朝期に、南朝方として消えて行ったハズの成田氏の名が、鹿角市に残り続けた事は、実に不思議な点なのです。
何故なら、鹿角四頭のひとつ秋元氏の姓は、現在の鹿角市からすっかり消え失せているから、なんです。更に成田姓は、鹿角市
だけではなく、青森県や秋田県においても、他の3姓よりも、比率が断トツに多い訳です。(※岩手県では全国平均以下です。)
これは何か、鹿角の盟主だった成田氏のその後に、意外な秘密がありそうなのです。鹿角では、南朝北畠顕家と共に消えて行った
成田氏ですが、その本家筋である武蔵国での成田氏の状況は、どうだったのですかね? 私は、鎌倉期に武蔵国の本家から分かれ
た鹿角成田氏と本家成田氏との緊密な関係は、鎌倉期から南北朝期に至るまで、ずっと継続していたのだろうと、考えています。
例えば鎌倉期の成田氏は、執権北条泰時の内衆を務める(吾妻鏡)など、北条氏に近い存在でした。建保五年(1217年)4月15日
の吾妻鏡では、この式部大夫成田次郎が、奥州住人深沼五郎(多分、鹿角の代官か?)と、鎌倉の繁華街で乱闘事件を引き起こして
いたことが記録されています。ですから私は、頻繁に成田氏本家と鹿角の交流はあったに違いないと考えています。(年貢等で?)
しかしその後の鎌倉後期になると、成田氏は目立った活躍もなくなり、成田氏は衰退していたようなのです。(理由は後程、)
そして1333年の鎌倉幕府滅亡時には、北条方であった成田氏も、やはり存亡の危機を迎えていたのでした。つまり、鹿角の成田氏
領の多くは没官領となり、一族は青森・秋田へと、新天地を求めて逃れて行ったのでした。この人々は青森・秋田で、本名成田
を名乗るようになります。成田氏一族は、九戸の乱の時ではなく、南北朝期の動乱により、青森・秋田に逃れていたのでしょう。
ですから青森・秋田に成田姓が多い理由は、この南北朝期の鹿角の盟主一族の大移動が、大きく関係していると考えられるのです。
しかしそのような存亡の危機の中で、北条氏に見切りを付け、南朝方の北畠顕家に付き従ったのが、鹿角成田氏の盟主であった
成田頼時(六郎泰次?)であった訳です。(八戸南部家文書 建武二年 文書三十六) ※この時、南部氏の南部師行もまた、
南朝方の北畠顕家に付き従っています。(※なので正統な南部氏とは、三戸南部氏じゃなくて、八戸南部氏なのではと?)
こうして成田の家を守ろうとした訳なのですが、奮闘むなしく、建武五年(1338年)5月、北畠顕家と成田頼時らは敗れ去り、
鹿角成田氏の家系は、遂に途絶えてしまったのでした。またこの時は、南部師行も戦死しています。
ところがです、成田の名前だけはその後も、消えずに鹿角に残り続けた訳ですね。一体どうしてなのでしょうか? また武蔵国
に於いても、一旦衰退した成田氏が、室町期に入ると再び復活?して来て、戦国末期には、大名にまで昇りつめているのですよ。
びっくりですよね? 一体何故なのでしょうかね? 成田氏に何が起きていたのでしょうか?
これらの疑問に対する答えが、今回掲示の文書になります。鎌倉史研究者、伊藤一美氏の「東国における一武士団」1972年
(学習院史学掲載)の一部分抜粋です。この論文は、武蔵の鎌倉御家人であり、鹿角四頭のひとつでもあった、安保氏について
まとめられた研究論文です。安保氏とは、承久の乱に際し、尼将軍北条政子が、最も頼りとする武蔵の武将として安保實光の
名前を挙げたことにより有名になった、鎌倉御家人氏族ですね。(吾妻鏡より) で、この論文の中で私が最も注目するのが、
鎌倉後期から南北朝期にかけて、安保氏が成田氏を徐々に吸収していく状況を示した今回掲示部分なのです。じっくりとご確認
下さい。要は、成田氏の衰退が始まっていた文保二年(1318年)以降、成田氏の所領は、武蔵でも鹿角でも、徐々に安保氏へ
移って行き、最終的に安保氏の分家・庶流が、成田基員として後成田氏?を名乗るようになった状況が示されているのです。
最終的に、鹿角の成田氏領地が安保氏に移ったのは、暦応二年(1339年)ですから、南朝方として戦った北畠顕家と成田頼時が
敗北・戦死した、建武五年(1338年)の翌年になる訳です。このあたりの安保基員の動きは、実に気になるところなのです。
しかしどうしてこんなことが可能だったのでしょうか? 普通ならば、滅亡した鎌倉幕府方の成田氏の領地は没官領ですよね?
ところがそうならなかった理由とは、安保氏と成田氏が、頼朝の奥州合戦や承久の乱以来の、武蔵の鎌倉御家人仲間であったこと
が、まず挙げられます。吾妻鏡にある、安保實光と成田七郎助綱以来の関係なんです。頼朝よりの恩賞により、鹿角四頭として、
奈良氏らと一緒に、鹿角に領地も得ています。当然縁戚関係も築いていました。しかし成田氏は敗北した北条方であり、その後は
南朝方に転じた訳です。そして敗北したので所領を没収・家を断絶されてもおかしくない訳です。ところが安保氏は、勝者である
北朝(足利尊氏)方に転じていたのですよ。ですから成田氏は安保氏に、領地を譲り渡すことが可能になったのです。私はこれ、
成田家の存続のための、高等戦術であったかも?、と考えています。安保氏としても、名前を残すことにより、成田氏の領地を
平和裏に引き継ぐことが出来たのでした。
もちろん成田氏側の立場に立てば、親戚安保氏に領地を奪われたと、主張することも出来ると思いますけどね。まあ武力をもって
奪い取った領地ではなかった、とは言えるとは思います。そう考えると、成田氏の家系を守った?、とも言える訳なのです。
ですから、本当の成田氏の中興の祖とは、成田氏系図で言うところの、成田家時などではなく、成田(安保)基員こそが、成田家を
救った中興の祖であると思います。しかし成田氏系図などでは、成田氏系統の万世一系を唱えていますからね、成田(安保)基員を
出す訳には行かなかったのでしょうけどね。(まあ成田氏系図が作成された江戸期には、ホントは基員の名前すらも、知られていな
かったかも?、とは思いますがね、、、) いずれにせよ、鎌倉期から続く成田氏は、ここで一旦途絶え、再び復活している訳なん
です。私は、鎌倉期の成田氏が、安保氏系統に変わったことによって、成田氏の名前が、次の室町期になっても武蔵国でも鹿角郡
でも、継続して行くことが出来るようになったのだ、と考えています。 (以降次回へ)




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