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人口分布から見る、鹿角四頭の末裔達Ⅴ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

アメリカではトランプが勝ちましたね、やっぱりなあ、と言う感じです。私は今回の選挙を、性善説VS性悪説の戦いであったと 

見ています。国民にゆとりが無く、切羽詰まっていると、性悪説が勝つのですよ。相手を疑い、決して信用せず、平気で噓をつく

社会が、世界中に広がって行くでしょうね。接戦を唱えた大手マスコミが、ことごとく予測を外したのも、性善説に基づく取材を

行って来たからですよ。しかし性悪説は結局、憎しみ合いになりますから、アメリカも最後は内乱になるだろうと思いますけどね。

第一次トランプ政権時の有力者は、皆トランプから離れて行きましたでしょ? 今回も最後は同じでしょうね。いよいよ第三次の

世界大戦、あるいは新戦国時代の到来ですよ。その意味で、トランプ政権の安定期は、かなり短いと思われます。

  

 さて前回までは、安保氏や成田氏を中心に鹿角四頭の本名の分布を、現在の人口分布から捉えて、鹿角由来記の各村記述から

その歴史的傾向を捉えようと試みて来たのでした。今回は、そのまとめです。 まずはおさらい、分布結果は以下の通りでした。

青森県では、成田姓:5位、奈良姓:48位、秋元姓:60位、阿保姓:106位、安保姓:700位(全国平均よりは多いが。)

秋田県では、成田姓:19位、奈良姓:53位、秋元姓:190位、阿保姓:ランク外、安保姓:102位(鹿角に多い)

岩手県では、成田姓:234位(全国平均199位)、奈良姓:ランク外(全国平均587位)、秋元姓:907位(全国平均474位)

      阿保姓:ランク外、安保姓:307位(ほとんど八幡平市)、

鹿角市では、成田姓:3位、安保姓:6位、奈良姓:9位、秋元姓:ランク外 ⇒昭元氏以外、異常に多く残っているなあ。

          ※岩手県での四氏姓は、全てランク外(1000位以下)。 ※名字由来net.、なまえさあち、より。

 

この結果を見ると岩手県では、明らかに鹿角四頭の末裔?の姓が少なく、秋田・青森で多いという、九戸の乱の影響が感じられる

分布状況だったのでした。また特に、安保姓や奈良姓が、岩手県では何故かランク外(1000位以下)であることは、その影響を

象徴的に表していると思われます。ところが成田姓は、岩手県でも234位と、全国平均(199位)並みには存在していて、九戸の乱

の影響は、人口分布からはあまり感じられない状況だったのでした。まあ成田姓自体が、成田氏だけに関係する特殊な姓ではなく、

稲作農業に広く関係する姓なので、地域性があまり無いとも考えられるからですね。ところがです、現在の鹿角市においては、

成田姓が断トツの3位である訳なんです。安保姓も6位、奈良姓も9位なのです。これは間違いなく鹿角四頭の存在が関係しています。

そこで前回までは、鹿角由来記の各村ごとの記述と、「東北縦貫自動車道発掘調査報告書Ⅰ 1981.3」の付篇第18表の各村記述を、

照らし合わせる形で、各村ごとにその検証を行って来た訳なのでした。

 

 しかし以前からの話しの流れでは、九戸の乱で、皆鹿角から、逃亡したのではなかったのでしょうかね? まあ秋元姓だけは、

鹿角市もランク外ですけどね。 何故これ程、現在の鹿角市に成田姓や安保姓、奈良姓が、今も多く存在するのでしょうかね? 

この鹿角市の状況、九戸の乱の影響だけでは、解釈が難しいようです。(ちなみに第1位は阿部姓、2位は佐藤姓だそうですが、

これらの姓は、いかにも東北地方を代表する名字なのです。つまり数が多くて当然の名字なのです。しかし3位の成田姓、6位の

安保姓、9位の奈良姓は、やはり少し異様な感じなのですよ。)

特に成田姓が現在の鹿角市で、名字ランクで3位ということは、極端に言えば、右も左も成田姓だらけ、ということですわね。

鹿角市内には成田という地名がある訳でもありません。ですからやはり、鎌倉期から続く領主層である鹿角四頭の名前との関連が

思い浮かぶ訳なのです。

 

 ところが意外にも、鹿角四頭(四天侍)の名を広めた、江戸期編纂の鹿角由来記の記述でも、例えば成田氏についての記述は、

既にほとんど無い状況だったのです。もちろん「本名成田」は頻繁に出て来ますがね、でもそれ以上の成田氏の事績等の記述は、

何も無いのです。掲示の鹿角由来記、「鹿角郡四十二館に侍四十二人居候事」を、詳細に確認しました。つまり「~村、本名成田」

以外には、成田氏についての記述が全く無いことが、判ったのです。左掲示の鹿角由来記に、鹿角成田氏の惣領家である毛馬内町

の記述があるのですが、天文年間(1532~1555年)に、三戸南部氏から南部靫負信継が領主として着任する前の領主名として、

毛馬内備中の名前があるくらいです。彼が、鎌倉期に鹿角に地頭として入植して来た、鎌倉御家人 成田七郎助綱の子孫である

可能性は低いと思われます。(本名成田は、名乗ったかも知れませんがね。)何故なら室町期には、鎌倉御家人鹿角成田氏の系統

は、既に途絶えていたと考えられるからなんです。その理由は、元々鎌倉北条方であった鹿角四頭の末裔達は、1333年の鎌倉幕府

の滅亡により危機を迎えているからです。更には、鹿角四頭のリーダー格であった成田氏や秋元氏は、北条方から北畠顕家の南朝方

に乗り換えて、生き残りを図ろうとしました。実際、北畠顕家の陸奥将軍府では、糠部郡代の南部師行とともに、鹿角郡代として

成田頼時が、南朝方として戦っています。(※八戸(遠野)南部家文書) しかし結局は、建武五年(1338年)北畠顕家らと共に

戦い、敗死してしまうのですが、この時点での成田頼時の拠点(館=城)は、大里城(大里村)となっているんです。(近世こもん

じょ館) でもここって、後の九戸の乱では、大里氏(安保氏)の拠点になっている城のハズですよね。ですから私はこの南北朝期

に、鎌倉期から続く鹿角の成田氏や秋元氏は、終えんを迎えたのだと考えています。成田氏については、関東武蔵国の成田氏本家の

方も、その後の成田氏の記録が見えなくなるからです。秋元氏についても、主家筋の宇都宮氏が南朝方であったため、関東でも混乱

が続きます。多分鹿角どころではなくなったのだと思われます。こうして鹿角の盟主としての成田氏、秋元氏の記憶は、鹿角から

消え去ってしまったのでした。私はこの時、敗北した成田氏秋元氏の一族は、秋田・青森へと落ち延びた(牢人)のだろうと考えて

います。ですから現在でも、青森・秋田に、成田姓が異常に多いのですよ。反対に北朝方(足利尊氏方)であった安保氏はその後、

優勢になって行きます。しかしそれもつかの間、室町後期には、南部氏の台頭により鹿角は、南部氏に浸食されて行ったのでした。

 

 ところが本名成田の伝統は、しっかりと江戸前期の鹿角由来記まで、伝えられていたのでした。驚くべきは毛馬内町についての

記述です。天文年間(1532~1555年)に、三戸南部氏から南部靫負信継が新領主として着任しているにも関わらず、伝統に従い、

毛馬内靫負を名乗っているのですよ。とすると当然、本名成田も引き継いだと考えられるのです。ですから鹿角由来記にも、本名

成田と書いてあるのです。同様の事例は、九戸の乱後の大湯村でも見られます。東北縦貫自動車道発掘調査報告書Ⅰの付篇第20表

でも触れられている通り、乱後に大湯村に着任した大湯五兵衛とは、毛馬内靫負(何代目?)の従兄だそうです。(右側掲示文書を

ご確認下さい。)ですから本当は、南部氏系であるハズなのに、土地の名称である大湯氏を名乗っている訳です。ですから当然、

本名奈良も、引き継いだのだろう、と思われるのです。

つまり鹿角郡では、戦国期・江戸期に至るまで、着任した新領主は、その土地の名前を姓として名乗り、鹿角四頭の名を本名と

して、引き継いでいたのだ、と言える訳なのです。それぞれの村ごとに、村の名とともに、本名があったのですよ。このように

考えると、現代の鹿角市にも、鹿角四頭の姓が極端に多い理由も、良く理解が出来るのです。

 

 さて今回のテーマの結論、まとめです。

①鹿角では、村の名前を姓とし、本名は鹿角四頭の姓を名乗る伝統風習が、南部氏系の支配に代わった江戸期になっても継続

 していた。従って、南部氏領で本来本名武田の村であっても、各村元々の鹿角四頭の本名が、各村に伝承され定着していた。

②武蔵国では、鎌倉中期から安保氏が成田氏の所領を引き継ぎ、その後安保氏系が成田氏を名乗るようになって来たが、鹿角郡

 にも、この状況は伝播していた。⇒鹿角大里村も、相続により成田氏から安保氏系へ?。(東国における一武士団 1972)

➂つまり江戸期時点では本名安保の村であっても、本来の本名成田で、伝承されていた村々が、数多く存在した。

 ※大里村、田山村、毛馬内町、瀬田石村、大欠ヶ村、赤澤村、楢柏鉢村、鰐口屋敷村、菅生鉢村、湯瀬村、長峯村・谷内村

  ・長内村・高市村・神田村・大地村・荒川村・高清水村・関神村、等々。(第18表、19表も参照のこと。)

 

 まあもっとも、鹿角四頭の末裔が、ほとんど居なくなった近代の鹿角市各村において、何故か鹿角四頭の名字が急激に増えた

のは、明治8年の「平民苗字必称義務令」が発布されてから以降、なんですけれどね。そう、もうお分かりですよね? 

鹿角郡の~村で生まれたから、農民であっても本名、成田、安保、奈良、だったのですよ。(この項了。)