· 

人口分布から見る、鹿角四頭の末裔達Ⅳ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

 総選挙の結果、与党は過半数割れになってしまいましたね。この結果をどう見るか?なんですが、世間的には当惑している

状況に見えますが、私は案外良い結果だったのではないかと思っています。野党も一本化出来る状況ではないので、政策ごと

の議論と合従連衡が繰り返される形が予測されます。強行採決が無くなり、国会での議論は深まるのではないかと思われます。

白か黒かの一面的是非論議ではなく、もっと多面的な議論による柔軟で意外な選択肢が出現する可能性もあるかも知れません。

もたもたしている?と見えるかも知れませんが、今回の神の見えざる手を信じてみるのも面白いかも知れませんよ。

 

 さて前回まで、どうして現在の鹿角市や青森・秋田に、鹿角四頭の本名である成田や安保、奈良の姓が多いのか?の謎を、

江戸期に書かれた鹿角由来記にある各村の記述と、東北縦貫自動車道発掘調査報告書Ⅰの付篇、第18表の記述を参照しながら

見て参りました。本名成田ではなく、本名安保の村々が、実は圧倒的に多いのですね。で、続きの村々も見て参りましょう。

まずは、中柴内村と折加内村ですが、これは前回最後の大村、柴内村の衛星村と考えてよいと思われます。両方本名安保です。

ですから私は、南部藩に組み込まれる以前、戦国期までの鹿角郡の盟主は、やはり安保氏だったのだろう、と考えます。

 

続いて次は、注目の新斗米村になります。何と本名は奈良です。遂に奈良氏の登場ですね。表には何も書いていません。多分、

報告書の編者が、奈良氏について、何の知識も持ち合わせていなかったのだろう、と思われますね。九戸の乱後に館(城)は、

間違いなく破却されていただろうと思いますよ。現在も鹿角市に、新斗米の地名がしっかり残っていますので、そこそこの村

だったのだろうと思います。その次の大湯村は、本名奈良の奈良氏惣領家です。しかし鹿角由来記の著者は、大湯氏(奈良氏)

のことも良く知らなかったように思います。何故なら領主名の記述が、大湯左衛門になっているからです。真ん中がないのです

よ。良く判らないので、大里村では決して書かれなかった九戸の乱について、敢えて書いているのです。読者への説明のため

ですね。まあ地味な奈良氏ですからね、大里修理の名前は決して出さなかったにも拘わらず、九戸の乱時の奈良氏については、

かなり詳しく書いている訳です。ですからこの大湯村の記述から初めて、大湯氏(奈良氏)の存在を知った読者は多いと思われ

ます。しかし大湯氏(奈良氏)は、幻の氏族などではなく、居城であった大湯館=鹿倉城は、現在でもその城跡は、しっかりと

残っているのです。(※私も行きました。)面白いのは、九戸の乱後に派遣されて来た大湯五兵衛(南部氏系)も、しっかりと

大湯氏を名乗っている点です。ということは、本名奈良の伝承も、引き継いでいた可能性があるのですよ。ちなみに第20表では

この大湯五兵衛とは、毛馬内靫負(何代目?)の従弟だったと記されていますね。Wikiの大湯氏の項にあるような、九戸方の

大湯四郎左衛門と、その後の大湯五兵衛が兄弟だった?などということは、あり得ない事である、と思われます。

そして続いて、小枝指村(こえさし村)になります。こちらも本名奈良ですが、表によると、小枝指系図では安保姓になって

いるそうです。鹿角四氏は、相互に縁戚関係を結んでいたようですから、まあ安保氏系とも言えたのだと思われますが、当然、

大湯氏(奈良氏)とも縁戚関係にあったのです。

 

その次は注目の神田村、毛馬内町になります。ようやく本名成田ですね。特に毛馬内氏は、成田氏の惣領家であったそうです。

後の天文年間(1532~1555年)に三戸南部氏(南部晴政?)から派遣された、南部靫負信継の領地になったそうで、知行高

2000石だそうですね。花輪村(3000石)に次いで大きな村であったようです。江戸期には村より大きい「町」だったのですね。

衛星村もたくさんあったようです。注目すべきは、元々毛馬内氏を名乗っていた成田氏に代わり、後に入部した南部氏も、毛馬内

を名乗っている点です。つまり、本名成田も引き継いでいるのです。とすると、成田氏系の毛馬内氏がいつ頃まで続いていたのか

が、気になるところですが、私は室町期以降の毛馬内氏は、既に成田氏系ではなく、安保氏系に変わっていたと考えています。

何故なら成田氏の本国である武蔵国では、鎌倉末期から既に、成田氏の所領が、徐々に安保氏へと譲り渡されていたからなのです。

(※東国における一武士団  伊藤一美 1972)(後に詳述します。) 鹿角郡も、武蔵国の状勢と繋がっていたのですよ。

しかしそれでも、本名成田の伝統は、引き継がれていたのです。そして毛馬内村は、安保氏系から更に、南部氏系へと引き継がれ

て行ったのでした。それでもなお、毛馬内氏、本名成田は、系統が変わっても、代々引き継がれて行ったのです。

 

続いての瀬田石村は、本名奈良です。奈良氏系も結構あったのですね。領主名が瀬田石太郎左衛門で、左衛門が付いているので、

奈良氏系だと判りますね。九戸の乱後には、毛馬内(南部氏系)大学の領地になっているそうです。

その後鹿角由来記は、大地村、小坂村、濁川村、荒川村等々と続いていますが、本名は成田、秋元です。ようやく成田氏系も増え

て来たのですが、私これらの村々、筆者も村の由来など、良く知らないのだろうと思います。判っているのは、本名だけなのです。

最後が高梨子館村になっていますね、領主名高梨子土佐と、本名秋元は判っていますが、古い由来などは良く判らないのですよ。

ですから毛馬内村の記述と同様に、天文年間(1532~1555年)に三戸南部氏より新領主が派遣されて来たと書いています。

以降書かれているのは江戸期の事績です。天文年間以前のこと、秋元氏系が高梨子村から、いつ居なくなったのか?などは、多分

鹿角由来記の筆者も、良く判らないのだろうと、私は思います。

さてこのように、鹿角郡の村々全体の由来記述を見てみると、鹿角特有のある特徴が見えて来るのでした。(次回へ)