いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。
明日は総選挙の投票日ですね。結果がどうなるかは判りませんが、私としては、今の物価高を何とかして頂きたいと、切に
願っています。我々年金生活者としては、もう切り詰める余地が無いほど、物価高に苦しんでいる状況なのです。スーパーへ
行くと、お米を筆頭に、野菜も肉も、総てが高騰している訳です。一方で年金支給額は、介護保険料だの健康保険料だので、
どんどん目減りしているのです。年金生活者だけじゃありませんよ、パート従業員の方々も、今月から社会保険の適用拡大が
実施されますので、少ない給料の中から更に社会保険料が徴収されるようになるんです。 止まらない物価高と賃金の目減り、
シングルマザーの方々など、どうやって生きて行けば良いのでしょうか? 結果は別としても、この危機に立ち向かう意味で、
今回の選挙には行った方がいいと思いますよ。
さて前回は、鹿角由来記の各村々の記述を見ながら、「東北縦貫自動車道発掘調査報告書Ⅰ」の付篇第18表を参照して、
江戸期の鹿角各村の状況を見て参りました。元々は、現代の鹿角市において、成田姓等の割合が異常に多い点を解明するのが
目的でした。でも前回までの村々では、安保氏系ばかりでした。やはり鹿角由来記にあるように、安保氏が鹿角の盟主だった
のでしょうかね? まあ安保氏は南北朝期、北朝方(足利尊氏方)でしたからね、勢力が伸びる訳です。一方で成田氏や秋元
氏系は南朝方でしたから、衰退したのは仕方がないことなのです。まずは、鹿角由来記の続きを読み進めてみたいと思います。
今回の続きは、松館村と尾去村からです。領主は土地名を名乗り、両方とも本名は安保氏です。続いて小豆沢村ですが、本名は
秋元だそうです。で表を見ると、天正19年(九戸の乱)に、館は破却されたそうです。秋元氏系も、村によっては、戦国末期
まで残っていたようです。そして次は、あの大里村になっています。九戸の乱で、大湯(奈良)四郎左衛門らと一緒に九戸城に
立てこもり、秀吉軍に斬首された大里修理の拠点ですわね。鹿角由来記によると、大里上総の領地であった?そうです。知行高
1000石だそうですから鹿角では大きな村です。本名は安保だそうです。しかし九戸の乱や大里修理については、何も書かれて
いませんね。でも安保氏の惣領家であるとは書いてあります。(四天侍の項)では、表の方ではどうなっているのでしょうか?
南北朝期の建武年間の館主は、(八戸南部家文書によると)鹿角郡国代成田小次郎左衛門尉頼時であったと、書いているでは
ありませんか!。しかしその後の永禄年間(1558~1570年)の記録には、大里豊前、大里備中の名前が見えるそうです。
でも鹿角由来記に書かれている大里上総ではありませんね。一体大里上総とは、いつ頃の人物なのでしょうかね? これが
判れば、江戸期編纂の鹿角由来記が、どの程度、歴史を遡っているのか(記憶しているのか)が、推定出来るのですよ。
と、大里上総を調べておりますと、ありました。鹿角市の小豆沢大日堂に現存する文明十八年(1486年)の棟札に、大里上総
の名前があるそうなのです。(近世こもんじょ館)つまり鹿角由来記は、大里氏の先祖として、室町中期ぐらいまでは記憶して
いるようです。しかし多分、それ以前については判らないのでしょう。なので当然、成田頼時についても知らない訳なのです。
九戸の乱後に館(城)は破却されているそうですから、鹿角由来記にある、その後の丹治氏は、どうでも良い事と思われます。
次の玉内村も、安保氏だったそうで、津軽へ牢人(逃れた)だそうです。
そして続いては、大里村と並んで注目の、花輪村になります。私はこの村こそが、鹿角安保氏の元々の本領だったと考えている
のですが、鹿角由来記では、長男惣領家は大里村で、次男が花輪村だったと書いています。しかしこの記述、どうなのでしょう
か? 先ほどまで大里村を見て来た訳ですが、鹿角由来記の記憶には、南北朝期の大里氏、成田頼時の記憶は既に無いのです。
つまり花輪次郎にしても、どこまで遡っているのか怪しい記述なのです。まあ花輪次郎の名前自体も、多分伝説なのでしょうね。
ただ逆に、花輪臥牛なる人物が本館(花輪館)に移り住み、その子孫が村替えにより、九戸の園子氏へ知行300石で移されたと
あるのは、多分史実なのでしょう。私はこの花輪臥牛なる人物は、多分南部氏系の人物であっただろうと考えます。もし仮に、
花輪臥牛なる人物が安保氏系であったとしても、村替えされていますので、花輪村最後の安保氏系であったということになり
ます。その後天正八年(1580年)には、南部氏の家臣、大光寺氏が花輪に入部していますから、私はかなり以前から花輪村は、
既に南部氏系の拠点の村になっていたのだろうと思うのです。つまり花輪村が安保氏系から南部氏系に変わった時点で、安保氏
の惣領家は、大里村に移ったのだろうと考えるのです。何故そのように考えるのか?、なんですが、村の規模が違うからなの
です。江戸期時点での石高なのでしょうが、大里村が1000石で、花輪村は周辺5ヶ村を含めて3000石だそうですよ。ですから
花輪村こそが、安保氏の惣領家だったハズなのです。だって鹿角四頭の盟主であった?安保氏ですからね、現在の鹿角市でも、
中心部は花輪なのです。しかし領主(代官)が南部氏系に変わっても、何故か本名安保は、残り続けたようです。不思議です。
表の17番にある臥牛本館は、南部氏系によって築かれた館だろうと思います。九戸の乱後にも破却されていませんからね。
次の黒土村、高瀬村、高屋村は、秋元氏系の村々のようで、特に高瀬村の高瀬氏は、鹿角秋元氏の惣領家であったようですね。
周辺に知行村もあったからです。しかし高屋村の高屋氏は、九戸の乱?後は、秋田に牢人したようです。表で、高瀬村の高瀬館
の所在地は不明となっていますが、私は秋元氏の惣領家は、かなり古い段階で、鹿角から撤退していたのではないかと、考えて
います。ですから館(城)跡も不明なのです。その意味で、高屋村の高屋筑前は、秋元氏系となっていますが、例外だと思います。
その次の柴内村、向牛村、次の頁中柴内村、折加内村、全て本名安保になっています。特に柴内村は、知行1300石とありますから
大きな村です。花輪村と並んで、安保氏の拠点の村であったようです。但し、花輪村と同じく、かなり以前から南部氏系の村に
なっていたものと思われます。それでも本名安保は、引き継いでいるのですねえ。しかしここまで本名成田はほとんど無く、逆に
ほとんどが本名安保の状況が続いているのですが、、、。 鹿角市が何故、成田姓なのか、ますます判らなくなって来ました。
(次回へ)





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