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新米が出回って来たのに、お米の値段の高騰が続いています。昨年の価格より50%以上値上がりしています。農水省は、新米が
出回れば価格も落ち着く、と言っていましたがウソだと思いますよ。一旦上がった価格を下げることは、農家や農協の損になります
から、価格は下らないと考えた方が良いと思います。米不足、価格高騰の原因は、異常気象の問題だけでなく、政府の減反政策に
こそ、本当の原因があるようです。田んぼを減らしたら補助金が出る、みたいな馬鹿な政策は止めるべきだと思いますがね。
さて前回は、九戸の乱で鹿角から出羽(秋田)に逃れて来たと思われる秋田奈良家なのですが、その家伝では弘治年中(1555~
1558年)に、大和(奈良)から移住して来たと伝えられて来ている事に対し、同じ系譜である奈良環之助氏の寄稿文を提示させて
頂きました。伝えられている移住年代も、一族の故地が奈良であることも、何か不自然に感じたからです。年代的矛盾については、
前回指摘させて頂きました。そこで今回も、この寄稿文から、家伝伝説の更なる疑問点を、探し出していきたいと思います。
まずは最初の移住先、豊川(昭和町)の奈良家菩提寺長福寺(潟上市昭和豊川上蛇川字小泉9)の記述からです。奈良環之助さん
の頃には、移住先の豊川小泉には、奈良家が19軒、南都家が10軒もあったそうです。(小さな集落は、奈良姓と南都姓ばかり?)
ですから、奈良姓の一族が、一族としてこの地に移住して来たことは間違いありません。奈良姓と南都姓の違いは、本家筋が奈良を
名乗り、分家筋が南都を名乗ったのかも知れません。あるいは、新斗米村出身者が奈良を名乗り、小枝指村出身者が南都を名乗った
とすれば、面白いかも知れません。いずれにせよ、鹿角の脱出して来た土地の姓は名乗れませんからね。本姓奈良に戻った訳です。
しかし奈良を表す姓として、南都を選んだのは失敗だったと思います。何故なら今も昔も、大和国(奈良県)には、南都姓なんて
いないから、なんです。(名字人口分布より、)※兵庫県には、ほんの少し存在はしますがね。つまり秋田奈良家のご先祖達は、
大和国(奈良県)のことを知らない(住んだこともない、)ことを示しているのです。多分イメージで、奈良だから南都だろうと
考え、姓を付けたのですよ。このことは、秋田奈良家の一族が、大和国出自ではないことを示す、有力な傍証となるハズです。
そこで奈良環之助さんは、奈良家の痕跡を探すために、紀元2600年(1940年)に、大和小泉(奈良県大和郡山市小泉町)を
訪れる訳ですが、残念ながら何の痕跡も探し出すことは出来なかったようです。そりゃそうです、奈良県内には、奈良姓自体も
極めて少ないからです。郵便局にも行かれたようですが、多分大和小泉エリアには、奈良姓すら居なかっただろうと思われます。
ましてや南都姓など、郵便局でも絶対に発見出来なかったであろうと、私は確信していますけどね、何も書かれてはいませんが。
結局奈良環之助さんは、移住地名が小泉繋がりであることを、唯一の収穫だったとしていますが、正直少し弱いと思われます。
移住開拓農民は、誰しもが、田畑を耕すために、必ず小泉を求めるからです。水の無いところで農業は出来ないからです。
また奈良環之助さんは、大和からの移住経路として、北陸から舟で豊川(上蛇川小泉)に至ったと推定しています。しかし
これも、現実的ではない経路だろうと考えられます。何故なら当時の豊川の手前には、八郎潟(汽水湖)があったからです。
豊川は内陸部です。仮に舟で八郎潟にまで到達出来たとしても、そこから先、当時舟で遡上出来たのは、馬場目川ぐらいしか
ありませんでした。でも馬場目川は、豊川(上蛇川小泉)を経由していません。やはりどう考えても、舟はおかしいのです。
一族揃って、奈良から秋田へ陸路で移動?では、更に理解不能です。戦国期に、各地の各関所を通過出来る訳がないからです。
更には仮に、大和国から豊川に到達出来たにしても、せっかく到達した豊川から逆戻りして、金足の地に至った?というのも、
理解不能な動きなのです。大和国から陸路で移動したならば、豊川の地よりも先に、金足の地を見つけることが可能だからです。
いずれにせよ、秋田奈良家が大和国(奈良県)から移住して来たという家伝は、あり得ない話しだったのです。ではどうして、
奈良から来た、などと伝えたのでしょうか? それは最初に奈良姓があったからです。奈良姓だったから、奈良から来たことに
したのです。当然、鹿角から落ち延びて来たとは言えませんからね。(平家の末裔だと、公言出来ないことと同じです。)
また、移住して来たこと自体は間違いありませんから当然、領主秋田氏からは、新田開拓の許可状(朱印状)が発給されていた
ハズなのです。この時点での秋田氏の領主は、秋田実季でした。ちょうど前年の天正十八年(1590年)には、津軽為信と連携し、
南部氏から出羽比内(大館市)を奪回したところだったのでした。だからこそ秋田奈良家は、南部領内から脱出さえ出来れば、
一族揃って秋田氏領内を自由に移動することが可能だったのです。
ちなみに、鹿角から秋田氏領である秋田比内(大館市)までの距離は、約40Kmぐらいですので、山道にはなりますが、女子供
でも、1~2日もあれば到達出来ただろうと思われます。この程度の距離だからこそ、一族揃って移住出来たのですよ。
また津軽への脱出ルートでは、小坂を抜け、碇ヶ関の関所を超えれば津軽領になります。こちらは鹿角奈良氏の惣領家、大湯氏
の一族が脱出したとして、出羽比内(秋田県大館市)に脱出した秋田ルートと同様に、津軽ルートの方も、約30Km程度の行程
でした。ですから九戸方の各氏族は、一族(村)を挙げて移住することが出来たのでした。
以上の理由により、秋田金足の奈良家だけではなく、多くの鹿角奈良氏や安保氏の末裔達は、出羽(秋田)の地にも、逃れたの
でした。これらの現象は現在でも、奈良姓や安保姓、成田姓の人口比率が、秋田県、青森県に異常に多く、逆に岩手県では異常に
少ないことにより、その歴史的証拠が裏付けられているのですよ。(この項了)




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