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彼岸の入りを過ぎても、まだ猛暑が続いています。マスコミは、大変だ!と
騒いではいますが、深刻感は見られません。結局クーラーがあるので、困っ
ても何とか耐えられるのですね。サンマが獲れなくなっても、シイラ(マヒマヒ)が獲れるからいいか、コメの値段が暴騰しても、新米が出回って来た
からまあいいかと、日本人は問題を先送りして、我慢してしまうのですね。
全員我慢出来ない事態になったら、日本人は一体どうするんですかねえ?
さて前回は、天正19年(1591年)の九戸の乱で敗れ、鎌倉期から続く
鹿角の地を追われ、流浪の民となった鹿角四頭の末裔達の館(城)の状況
を、東北縦貫自動車道発掘調査報告書Ⅰ(秋田県教育委員会)から見て参りました。鹿角由来記にもある通り、鹿角奈良氏の惣領家である、大湯氏の
子孫達は、津軽に逃れ、津軽氏に仕官することが出来ました。私のご先祖
も、実は同じ系統です。しかし大湯氏以外の分家の奈良氏の子孫達(新斗米
氏や小枝指氏、小平氏など)は、一体どうなったのでしょうかね? そう言えば奧南落穂集では、大里修理(安保氏)の子孫は、
出羽(秋田)に逃れたと書いてありましたね。逃れるとすれば、北の津軽か、西の秋田しかないのですよ。東や南(南部氏領)へ
は、絶対に逃れませんよ。で、秋田が好都合だった点としては、鹿角から領国境いの出羽比内(秋田県大館市)までの距離は、
わずか30Km程だったことです。徒歩で1日程度の行程ですから、津軽へ逃げるよりは出羽(秋田)の方がやさしい逃走ルート
だったハズなのです。(※領主の秋田氏が、避難を認めれば、の話しですけどね。)
では奈良氏の子孫も、出羽(秋田)に逃れた痕跡はあるのでしょうか? ちなみに名字の人口分布調査によると、青森県と
秋田県は、奈良姓の割合が跳び抜けて高い地域なのですがね。(ちなみに岩手県は、奈良姓の比率が全国平均以下です。)
そこで江戸の前期あたりで、有名な奈良姓の痕跡なんて秋田に存在したのだろうか? と調べておりますと、何とあっさりと、
その痕跡を発見してしまったのでした。それが今回の掲示写真である「旧奈良家住宅(秋田)」だったのでした。秋田の奈良家
ですよ、これは期待が持てます。そこで旧奈良家住宅を調べてみますと、何と現在は、秋田県立博物館の分館になっているでは
ありませんか。つまり秋田奈良家は、秋田県を代表するような豪農だったようなのです。そこで県立博物館の解説を見てみますと、
この建物は、江戸中期の宝暦年間(1751~63年)に、奈良家九代の奈良善政(喜兵衛)によって建てられたのだそうです。
場所は秋田県秋田市金足小泉です。(すぐ近所には、甲子園高校野球で有名になった、金足農業高校があります。)
ほう、これは期待が持てますよ。何故なら九代目は建築当時、当然成人であったハズです。そしてこの秋田氏金足の地に移住して
来た初代も、当然当時は成人であったハズなのです。ですから8世代分を引くと、おおよその移住してきた年代が判るのですよ。
現在の一世代は、約30年ぐらいですが、江戸前期だと20年ぐらいです。(※誕生から次の嫡子が誕生するまでの期間を一世代と
します。)九代目の奈良善政(喜兵衛)は、1751~1763年の間に成人だった訳ですから、20年×8世代=160年を差し引くと、
秋田奈良家の初代は、1591年~1603年のあたりに、秋田市金足の地に移住してきたことが判明するのです。え?、1591年!?、
1591年は、九戸の乱の年ではありませんか! とするとやはり、秋田の奈良家は、九戸の乱で鹿角の地を追われて、秋田金足へと
逃れて来たのでしょうかね? そのことを証明するような、秋田奈良家に伝わる家伝などは残っていないのでしょうかね?
と調べておりますと、秋田奈良家は、秋田を代表するような名家ですので、郷土の名士を多く輩出しているのですが、奈良磐松
(いわまつ)という人物を見つけました。明治~昭和にかけての、秋田の著名な実業家、銀行家、政治家でした。ですから出身校
である、県立秋田高等学校の同窓会ホームページには、何と奈良磐松の伝記(リンクあり)が掲載されているのでした。その伝記
によると「秋田の奈良家の歴史は大変古く、弘治年間(1555~58年)に、大和小泉村(現奈良県生駒郡片桐町小泉)から、一族と
ともに出羽の豊川村字上蛇川(現南秋田郡昭和町豊川)に移住したことに始まる。」のだそうです。(ご確認を。)
え?、弘治年間に?、大和の小泉村から?? この家伝が正しければ、私の目論見は、ものの見事に外れていたことになります。
しかし私、この秋田奈良家の家伝に、どうも違和感を覚えるのですよ。戦国時代の大和の国の農民が、一族で出羽の国へ移住する
など、常識的には考えられないからです。また弘治年間だって戦国期ですので、陸路で移住など考えられません。じゃあ海路で?、
大和小泉は内陸ですよ、大阪湾に出るのも大変でしょう。でも家伝ですから、尊重しない訳には行きません。秋田奈良家の人々は、
代々これを信じて、伝えて来ている訳ですからね。
この家伝が、本当は間違いであるという、何か決定的な資料などは、ないのでしょうかね?(次回へ)

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