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戦国期に注目された奈良氏とは?Ⅶ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

 9月中旬になってもまだ、強烈な猛暑が続いています。大規模な環境変動は、海の中でも起きているようです。海産物の激変

です。北海道函館で、イカや昆布が獲れなくなったことは有名な話しなのですが、逆に北海道でこの頃大漁が続いているモノも

あるのですよ。それはブリとズワイガニ(越前ガニ?)なんです。現在東京のスーパーでは北海道産のブリが、大量に売られて

います。何故なら、北海道ではブリの需要がほとんど無いからです。で、ここからが重要なのですが、来年は多分、西日本の海

では、ブリもズワイガニも、まったく獲れなくなるだろう、との予測です。簡単な話しです、ブリもズワイガニも、涼しい海を

求めて、北海道へ避難逃亡しただけのことだからです。西日本の海から、ブリもズワイガニも消え去ってしまったのですよ。

 

 さて前回までは、奈良氏を含む、鹿角の小領主達が、南部信直の策謀により、九戸の乱で滅亡する状況を見て参りました。

今回は、鎌倉期の鹿角四頭系の一族が、九戸の乱で、どのような運命を辿ったのか?を、別資料から見て行きたいと思います。

まずは左端の掲示文書、鹿角郡由来記の右から4行目、大湯村の記述でおさらいです。奧南落穂集の九戸の乱の記述でも、ほぼ

同様の内容が書かれていますのでご確認下さい。まあ鹿角奈良氏惣領家、大湯四郎左衛門の弟か子かは判りませんが、津軽に

逃れて、津軽氏に仕官することが出来たと、のことです。このことからも豊臣軍に参陣した津軽為信も実は、九戸方のシンパで

あったことが判るのです。また奧南落穂集によると、鹿角安保(阿保)氏惣領家、大里修理親基の子は、出羽に逃れたとあります

が、この出羽とは山形県ではなく、出羽比内=秋田県のことだろうと考えられます。つまり秋田氏も同様に、九戸方のシンパで

あったということなのです。そしてこの記述は、九戸方の一族達が、津軽(北)と秋田(西)に逃れたことを示しています。

決して南部領内には逃れていないのですね、つまり戦った相手の豊臣軍が、本当の敵ではなかった、ということなのですよ。

 この九戸の乱において、他の鹿角郡42館の侍42人の状況を解明している資料が、今回掲示の「東北縦貫道発掘調査報告書Ⅰ」

(1981年 秋田県教育委員会)になります。この報告書では、湯瀬氏(成田氏系)の湯瀬館(鹿角市八幡平字湯瀬古舘)の発掘

調査が行われています。そしてこの湯瀬館(城)は戦国末期頃(当然天正19年 1591年か?)に破却されているそうです。湯瀬

氏も九戸方だったのでしょうね。まあ発掘調査報告書自体は、我々にとっては無味乾燥の代物なのですが、添付している付篇の

方が、非常に興味深い内容になっています。実は今回は割愛しているのですが、第18表として鹿角地方の館の分布一覧表(鹿角

四氏の館主を中心として)が掲載されています。表の最後の部分が、真ん中掲示写真です。46~51の所在地が書かれていますが、

鹿角郡由来記にも鹿角由来集にも出て来ない館なので館主名(氏族名)が空欄になっています。多分、九戸の乱後に新たに作られ

た館跡なのだろうと思われます。この第18表については、良くまとまっているので、別途掲示報告させて頂ければ、と思って

います。で、真ん中掲示写真とその次の付篇写真を載せているのは、編者の注釈が興味深いからなんです。注2で、鹿角4氏(頭)

について書かれているんですが、1981年当時は、鹿角四頭についての研究は、まだあまり進んでいなかったように思えますね。

源頼朝による奥州征伐以降の鎌倉御家人の地頭派遣を理解しなければ、成田氏、安保氏、奈良氏の派遣は良く判らないでしょうね。

また、武蔵安保氏と鹿角安保氏の関係についても同様です。本家と分家で、絶えず関係があったのですよ。南北朝期の安保行員・

基員の史料(領地譲り状 八坂神社文書)にまで触れていながら、残念ながら鎌倉期の吾妻鏡にまでは、遡れなかったようです。

鎌倉期を理解していれば、領地譲り状の内容から、安保氏と成田氏の関係も理解出来たと思うのですがね。 ちなみに、安保氏と

阿保氏の表記の問題は、鹿角安保氏の仮冒(見栄っ張り)が原因ですよ。鹿角内での地位が上がれば、名誉が欲しくなる訳です。

 で、注目すべきは、175頁の方の注釈文なのですが、まず編者は、「青森の大湯家に伝わるところによれば、大湯家は天正19年

(1591)まで鹿角に居住しており、奈良姓を称していたとのこと。」と書き、大湯氏が津軽に落ち延びたことを傍証しています。

さらに、「天正19年(1591)までに、鹿角4氏の多くが没落・離散したこと、鹿角周辺(正確には、旧南部領内)の鹿角4氏の

子孫と称する家の系図には、天正19年(1591)以前の先祖のことについて記されたものは皆無であること、」とは、何を意味

しているのか?、なのです。簡単な話しです、九戸の乱の敗北で、鹿角4氏の一族は全て、鹿角郡から逃亡した、ということなの

です。つまり、落ち延びたのは、大湯治郎左衛門、彦左衛門、大里備前親易ら、だけじゃあないのですよ。一族郎党みんなで

逃亡したのです。何故なら当時は、武士=農民だったからです。村民の逃亡は、豊臣軍のなで斬り(皆殺し)の結果です。

私は、村ごと逃散だったと思っています。前出の第18表では、九戸方と思われる館(城)は、ことごとく(南部氏によって)破却

されています。しかし乱の以前に、鹿角4氏から南部氏系の領主へと変わっていた館(城)は、当然のことながら、一切破却され

なかったのでした。右側最後の掲示写真が、第20表「鹿角郡由来記」・「鹿角由来集」にみる館主の変遷(鹿角4氏⇒南部氏系)

です。大湯氏(奈良氏)の大湯五兵衛の欄をご覧下さい。九戸の乱後の大湯五兵衛とは、毛馬内靭負(ゆげい)の従兄だそうです。

(毛馬内と言っても成田氏じゃないですよ、南部氏ですよ。)つまり全く別系統の、姓だけ大湯氏なのですよ。

 

 九戸方であった鹿角の村民達が、大挙して津軽に逃れたと考えられる痕跡(状況証拠)のひとつをご紹介しましょう。それが、

夏の津軽(青森県)各地で広く開催される、ねぶた(ねぷた)祭りなんです。巨大な武者絵の山車灯篭で有名です。江戸時代

からあったそうですが、青森県ほぼ全域で開催されているにも拘らず、何故か八戸(南部氏側)にだけは、ねぶた(ねぷた)祭り

が無いのです。このことから、ねぶた(ねぷた)祭りの発祥は、津軽氏と南部氏の戦いに由来していると言われています。この

ねぶた(ねぷた)祭り、津軽(青森県)だけの祭りだろうと考えられているのですが、実は意外な場所でも開催されているの

ですよ。それが鹿角市花輪で開催される、花輪ねぷた祭りなのです。鹿角って江戸時代は南部藩領なんですけどねえ、、しかし

祭りでは何故か、津軽と鹿角花輪(九戸方?)が、繋がっていることを表しているのです。大変興味深い事例だと思います。

 

 さてこのように、鎌倉期から続いていた鹿角四頭の末裔である奈良氏(大湯氏)も、遂に鹿角を脱出することになりました。

津軽に逃れ、武士として津軽氏に仕官出来た大湯氏は、まだ良かったのでしょう。問題は、惣領家ではないが奈良氏姓である

新斗米氏や小枝指氏、小平氏、瀬田石氏、芦名澤氏、草木氏などの末裔なのです。武士でもあり農民でもある彼らは、いったい

どうやって、鹿角を脱出し、難民として一体どこへ向かったのでしょうかね?(次回へ)