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9月に入り、朝晩だけは少し涼しくなって来ました。しかし日中はまだ、猛暑が続いています。九州などでは、6月からずっと
猛暑が続いていますね。もはや「地球温暖化?」などと言うぬるい表現は、不適切にさえ思えます。地球灼熱化の方が適当
ではないでしょうかね? 灼熱化して最後は砂漠化ですよ。今後一体どうなってしまうのでしょうかねえ、、、
さて前回は、九戸方との戦いにおいて、南部信直が取った、豊臣政権を味方に付けるための、天正十八年(1590年)の騙し
(フェイク)作戦について見て参りました。この作戦の成功により、第二次奥州仕置軍の総大将豊臣秀次によって、九戸方は、
妻子も含めてのなで斬り(皆殺し)になってしまったのでした。極端な言い方をすれば、南部信直は、自らの手を一切汚さずに、
政敵一族を滅亡させることに成功したのでした。南部信直の嘘フェイク情報を信じた、浅野長政や豊臣秀次が愚かだった、とも
言えるのでしょう。それにしても、妻子・家臣ともども、なで斬り(皆殺し)にされてしまったのに、九戸方は、よく降伏して
出頭したものだ、と思われますよね? 最後まで抵抗しても結果は同じだったからです。実はこれには、南部信直方による、
もうひとつのフェイク(騙し)が、あったからなんです。有名な伝説なのですが、南部信直方は、籠城する九戸政実らに対して
九戸氏の菩提寺である長興寺の薩天和尚を使者に立てて、降伏すれば妻子・家臣の命は助けるとの約束を伝えていたのでした。
まあ武門の倣いですからね、小田原合戦では、北条氏直だって助命されていますからね。九戸政実としては当然、妻子・家臣の
命は助かると信じた訳です。ところが約束は反故にされ、降伏したのに、全員なで斬り(皆殺し)にされてしまったのでした。
しかし南部信直方としては、そんな約束はしていない、勝手に降伏して来たのだ、という立場なのです。果たしてどちらの主張
が、正しいのでしょうかねえ?
これを検証するのが、今回の掲示文書、「六十一浅野長吉(長政)書状写」なのです。重要部分は「九戸(政実)に髪を剃り
(出家して)、走入(降伏)を申し付けた。」との記述です。攻城戦の際、何らかの降伏勧告があったことを示しています。
まあ通常の降伏勧告のようにも見えます。しかし髪を剃れ?というのは妙に具体的ですわね。やはり、薩天和尚が絡んでいる
のでしょうか? 南部氏関連の文書には、このあたりの経緯については、何も書かれていません。そこで再び、奧南落穂集なん
です。例の「九戸左近将監政実叛逆之事」の部分です。(リンクを貼っています。)この中で、「頭取七人の他は、御宥免退散
勝手次第(無罪放免)、七人は(豊臣)秀次卿に伺いの上赦免はその時にあるべし。」と、記述があるではありませんか!
だからこそ、九戸政実ら7人は、髪を剃り、出家姿で降伏・出頭したのですよ。九戸政実らは、このフェイクに騙されたのです。
ところが南部信直は、前年の天正十八年(1590年)の小田原参陣の際、九戸方追討の援軍を要請し、第一次奥州仕置軍が平泉
まで来た際に、浅野長政に九戸方との戦況報告をした際に、ありもしない九戸方の降参願いを報告し、浅野長政から恩赦を受け
ていたことになっていますから、浅野長政としては今回の降伏は2度目、という認識になっていたのでした。(奧南落穂集)
ではこのフェイクは、誰が仕掛けたのか?、浅野長政ではありませんよ。浅野長政は、九戸氏の菩提寺も、薩天和尚も知らない
からです。やはり南部信直の仕業だったのです。そして九戸政実らは、赦免されるとの約束を信じていたにも拘わらず、秀次の
「一度は赦してやった?のに、再び?叛逆するとは許せん!」との逆上により、妻子・家臣ともども、なで斬り(皆殺し)に
されてしまった、という訳なのでした。つまり南部信直は、総大将秀次の逆上を計算した上で、Wフェイクを仕掛けたのです。
そしてこのWフェイクにより、南部信直は自らの手を一切汚さずに、九戸方を殲滅することが出来たのでした。騙されたのは、
九戸方だけではなく、実は、豊臣方(浅野長政、豊臣秀次)の方も、南部信直に騙されていた訳なのですよ。
と言う訳で、豊臣軍の力で勝利はしたものの、南部信直側には、世間には知られたくない負い目が、生じてしまったのでした。
ですから、後の南部藩は、九戸政実の乱についての詳細は、敢えて何も残していない訳なのです。ところがこの乱の結果は、
九戸方の領地であった糠部郡(岩手県北部)だけでなく、何故か、奈良氏(大湯氏)らの鹿角郡にも、多大な影響を及ぼしたの
でした。ようやく奈良氏(大湯氏)の名前が出て来ましたが。というのも、勝った南部信直側の領地より、負けた九戸方の領地
の方が、広かったからなんです。(その意味で本来の南部氏とは、九戸方の方だったのかも?)その証拠に、勝った南部信直は、
南部氏の本拠地を三戸から九戸(岩手県二戸市)に移し、九戸城を福岡城と改名して、ここに移り住んでいるからです。
※本拠地福岡城(九戸城)は、慶長二年(1597年)に盛岡城(盛岡市)が築城されるまで、続きました。
で重要なのは、南部信直側は何をしたのか?、なんです。実は負けた九戸方の在地領主の館を全て破却し、村民を追放したのです。
当時の武士とは、自分の領地内では農民の親玉です。戦の時だけ武士になるんです。在地領主と言っても、村ごとの農民一族だった
のです。秀吉による刀狩り令も、奥州にはまだ浸透していません。従って、兵農分離も進んでいないので、村の在地領主が追放に
なると、村民全員が追放になってしまうのでした。で鹿角郡を見てみますと、以前の鹿角由来記の「鹿角郡42館に侍42人居候事」
にあるように、多くの村々は、鎌倉期から続く鹿角四頭系の在地領主による支配体制が続いていました。(鹿角の元盟主だった、
毛馬内氏や花輪氏などは既に、成田氏・阿保氏系統から、南部氏系領主に変わっていましたけどね。)
しかし古くからの鹿角の有力在地領主(大里氏=安保氏や大湯氏=奈良氏など)はまだ、九戸方の首領級領主だったのです。
ここで再び奧南落穂集の「九戸左近将監政実叛逆之事」を見て行きますと下段に 、九戸の乱の戦犯者名簿が書かれています。
大湯(奈良)四郎左衛門と大里(阿保)修理の名前が見えます。両名とも、本陣の三迫で処刑されていますので、首領級です。
これにより、大湯氏系と大里氏系の村々が、追放処分を受けたのでした。青森や秋田に逃れる、難民の大移動が引き起こされたの
です。実はこの難民大移動こそが、後年の怨念として、代々引き継がれて行く原因になったのだろうと思われます。現在も続く、
津軽の人々が南部を嫌う感情とは、この時の艱難辛苦、先祖の恨み、が元になっているのですよ。
奈良姓(大湯氏系)が、青森・秋田に多いことは、以前から何度も述べていますが、阿保・安保姓(大里氏系)が最も多い地域も、
実はやはり青森県、秋田県なのです。つまり村民全体の大移動が起きていた証拠なのですよ。
しかし津軽氏(大浦氏)は豊臣方ですよね?、それが何故、九戸方の避難民を、津軽で受け入れることが出来たのでしょうかね?
それは、お互い豊臣方であるハズの津軽氏と南部氏が、実は敵同士だったからです。 豊臣政権は、両者にとっても敵ではないの
ですよ。そして更には、津軽氏(大浦氏)の実家は久慈氏(八戸)なので、血縁的には九戸氏に近い存在だったからなのでした。
(久慈氏は全面的に九戸方です。)九戸の乱後、久慈氏一族も追放になり、八戸には南部氏系の領主が派遣されて来ますが、この
ことによって現在の青森県八戸市が、現代までも続く、津軽(青森)対南部(八戸)対立の源流になっているのです。
このような経緯から、敗れた九戸方の大湯氏(奈良氏)一族も、安心して津軽に脱出することが出来たのでした。また、秋田の
状況も幸運でした。領主の秋田実季は、惣無事令違反で、豊臣秀吉から領地を半減されていて、豊臣政権に対し、恨みを持って
いたのでした。 でもしかし、九戸の乱での敗者側村民の難民大移動なんて、本当にあったのでしょうかね? 鹿角由来記や、
奧南落穂集では、九戸方首謀者の子供だけが、津軽や出羽に逃れたことになっていますけどねえ?、、、(次回へ)



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