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8月も今日が最後で、24時間暑かった夏の気温が、ようやく緩んで来ているように感じられるようになりました。まあ台風の影響で
しょうから、今後どうなるかは、まだ判りませんがね。でもこれまで連日35度越えの猛暑が続いていた状況からすると、最高気温が
2~3度低いだけでも、大きな違いに感じられるのです。少しずつでも良いので、更にこのまま涼しくなって行って欲しいものです。
前回は、世間的にはほとんど知られていない、戦国末期の奥州糠部郡や鹿角郡で起きた大乱、九戸政実の乱について、南部信直
側と、豊臣政権側の認識について見て参りましたが、この戦いについては、知られたくない部分もあるので、誇るべき戦では
なかった、との思いがあったようです。それでは今回は、九戸側サイドの視点から、この乱を見て行きたいと思います。
と、その前に、九戸政実の乱について、ネット上の記述は多いのですが、その前提史料は、前回までの鹿角由来記とか系胤譜考の
南部氏家図あたりから出発している訳です。いずれも江戸期の編纂ですから、一次史料(同時代史料)ではない訳です。そこを出発
点にしているので、Wikipediaあたりから、検証可能性(怪しい?)についての文句が出たりするのです。まあ九戸政実の乱自体は、
自明の史実である訳ですが、鹿角由来記とか、南部氏系図あたりからだけで出発すると、南部氏側からだけの見解でもありますので、
色々誤解も発生する訳なのです。そこで今回は、九戸の乱の一次史料として、浅野家文書(国立国会図書館デジタルコレクション)
を掲示させて頂きます。文書番号六十一「浅野長吉(長政)書状写し」です。これらの一次史料文書から、九戸政実の乱が史実で
あったことが証明出来るのです。しかし何故このような文書を掲示するのか?、と申しますと、南部藩(南部氏)も豊臣政権側も、
九戸政実の乱を矮小化するか、出来れば、無かったことにしたい意図が、強く感じられるからなのです。後の南部藩も、九戸の乱
についての詳細部分は、実はほとんど触れていないのです。ですから世間の人々の多くは、九戸政実の乱を知っていたとしても、
実は詳細を良く知らないのですよ。まあ仮に、詳細を知られてしまった場合でも、南部氏、豊臣政権側は正義だった、で終わり
なんですけどね。でもホント、あまり触れたくないんですよ。それは何故か?なのです。その理由は、南部氏にも豊臣政権側にも、
負い目があるから、なんです。その負い目の部分を、九戸方の視点から見て行きたいと思います。
(しかし九戸方の文書は全て処分されてしまっていますので、その主張については、他史料の読み込みと、状況証拠の積み重ねに
よるしかないんですがねえ、、、。)
まず初めに、九戸政実が反乱を起こすまでの、南部氏内部の背景についてです。南部信直(南部藩)側の認識としては、南部氏
の家督継承問題で、信直後継の決定後に、理不尽な難癖をつけて来た?、という認識なのですが、九戸側の認識は、まるで違って
います。そもそも、南部信直の南部氏家督継承を、認めていないからですね。つまり、闘いは、天正十九年(1591年)に始まった
訳ではなく、南部氏を統一した南部晴政、嫡男の晴継と、相次いで死んだ、天正十年(1582年)からずっと続いていたからです。
実は、それ以前の南部晴政の代から、南部信直との対立は続いていました。南部晴政方を引き継いだのが、九戸方であった、とも
言えるのでした。南部晴政方=九戸方だとすれば、九戸方とは、果たして反乱軍と言えるのでしょうかね? そして更には九戸方
だけではなく、津軽の大浦氏(津軽氏)も反乱を起こしており、この頃の南部氏領の内部は、内乱状態になっていたのでした。
つまり、南部信直(南部藩)側が主張するような、九戸政実一味だけ?による単独反乱などでは、決してなかったのです。更に
言えば、南部信直(南部藩)側だけでは、とても抑えることは不可能な(勝てない)、大反乱だったのでした。
そのような中、天正十八年(1590年)秀吉の小田原参陣命令に従い、大浦(津軽)為信と南部信直は参陣したため、所領は豊臣
政権によって安堵されます。これにより南部氏の内乱は、家臣九戸方による領主南部信直に対する反乱(一揆)に、突然性格が
変わってしまったのでした。南部信直は豊臣政権へ、九戸政実だけではなく、津軽為信も反逆者として訴えますが、こちらは
豊臣政権により却下されています。何故なら津軽為信も、南部信直と同様に、豊臣政権の家臣になっていたからです。家臣である
大名同士は争ってはいけないからですね。(惣無事令) ※九戸政実は、秀吉の家臣じゃないからいいんです。
この年の小田原征伐の後、第一次奥州仕置軍が編成され、奥州仕置が実施されますが、この時九戸方は、改易や減封になっては
いません。一度許されているのです。このことを、奧南落穂集は、「九戸左近将監政実叛逆之事」で書いています。(※リンクを
貼っていますので、本文をご確認下さい。)曰く、「十八年の小田原参陣の時、秀吉公に謁見した際、領内逆徒(九戸方)征伐の
ための援軍をお願いした。秀吉公は了解し、後日、浅野長政が奥州(平泉)に下向して来た。そこで信直公は、九戸城を攻めたが
我が方と接戦になり、城内攻防戦になりそうになったので、九戸方は降参を求めて来た。(と長政に説明したところ。)長政は、
奥州平定を急ぐため、九戸方の降参を許す裁定をし、信直公と綿密な打ち合わせ後、帰京した。」(近世こもんじょ館)とのこと
です。実際には九戸方は、降参など求めていないのですがねえ、、一応これ、南部氏方の史料ですよ。しかし大体が、天正十八年
に三戸南部氏軍が、九戸城を包囲した?などとの史実もありません。従って城内攻防戦になるハズもないのです。南部信直の浅野
長政に対する嘘(フェイク)報告ですね。浅野長政らも、二戸(九戸城)までは行っていませんしね。 まあこのような経緯で、
九戸方は、お咎めなしになったようですが、そんなことは九戸方は知りません。だって包囲攻防戦なんて無かったのですからね。
ですからそもそも第一次奥州仕置で、九戸方へのお咎めなどは、一切無かったのですよ。逆に言えば、奥州仕置軍に対する、九戸方
による反乱(一揆)などは無かったのだ、とは言えるのです。(あくまで、南部信直によるフェイク報告だけによる恩赦だけ。)
ところが翌年、南部信直公の温情?にも拘わらず、九戸方は再び蜂起したので、秀吉・秀次公の逆鱗に触れ、なで斬り(皆殺し)
にされたのだ、というのが奧南落穂集(南部氏側)の公式見解のようです。つまり、南部信直側による、騙し(フェイク)作戦
での勝利だったのです。(何故、同じように降伏した北条氏直が赦され、九戸一味は、なで斬り誅殺されたのか?、なのです。)
しかし三戸南部氏による、騙し(フェイク)作戦は、これだけに留まりません。別の騙し(フェイク)作戦が更に追加されたのです。
それは翌天正十九年(1591年)の九戸城での、九戸方と第二次奥州仕置軍(秀次軍)との攻防戦の中で、実施されたのでした。
この騙し(フェイク)作戦について書かれているのが、今回の掲示文書、「六十一 浅野長吉(長政)書状写し」なのです。
この文書は、九戸の乱終戦直後の9月14日に、九戸城に進駐している浅野長政が、三迫の第二次奥州仕置軍の本陣にいる奉行の、
長束正家に対して提出された、九戸の乱の戦況報告書です。この中で、長政は、主犯九戸政実らの状況について、次のように
書いています。「去る9月2日より、九戸城を取り囲み、早くも堀の際まで兵を押し進めましたところ、九戸政実らには、髪を剃り
降伏するように申し付けたところ、九戸方は妻子を含めて出頭しましたが、中納言(豊臣秀次)様の命により、全員打ち首の指示が
下り、150以上の首が、中納言様(秀次)の元(三迫)へ届けられました。その後、櫛引(清長)とか申す者も、降伏して来ました
ので、(同じく首をはね)中納言様(秀次)の元(三迫)へお届けしました。」との内容です。さてこの内容のどこが、騙し(フェ
イク)なのでしょうか? それはこの浅野長政の報告書と、奧南落穂集の「九戸左近将監政実叛逆之事」の続きを比較することに
よって、明らかになるのです。キーワードは、「頭取七人の他は、御宥免退散勝手次第。」です。(続きは次回へ)



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奈良 (水曜日, 04 9月 2024 20:48)
コメント失礼致します。
奈良姓の由来について調べていたらこのブログに辿り着きました。
私も丸に2つ引き、祖父の代に青森から埼玉へ越した奈良です。
祖父のこともあり、自分の中では青森の姓だと言う印象が強かったのですが、
埼玉に奈良という地名が散在しており、子供の頃から不思議に思っておりました。
このブログを読んで、様々な疑問が解決して驚くことばかりです。
なんと偶然先祖由来の地に戻ってきていたとは…!
まだ全てを読み切れていないのですが、これだけの資料を調べ上げ、執筆していただきありがとうございます。
それだけを言いたくコメント致しました。
奈良 尚紀 (木曜日, 05 9月 2024 08:55)
上記コメント、有難うございます。私も、曾祖父の代までは、青森県藤崎に住んでおりました。
その後祖父の代に北海道へと移住し、私だけが現在埼玉に住んでおります。埼玉県内でも、
加須市や久喜市あたりは、奈良姓が多い土地柄のようですね。調べてみると面白いかも知れません。