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戦国期に注目された奈良氏とは?Ⅳ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

お米が店頭から消えているようです。国産米が無いので、一部の店では代わ

りに、カリフォルニア米を売っていました。政府はコメの在庫は充分にある

と言っていますが、一体どうして店頭にはコメが無いのでしょうかね? 

簡単な話しです、買い占められているのですよ。ですから対抗策としては、

新米が出回るまでは、なるべくコメを食べないようにすることです。今年は

猛暑で凶作になるとの読みで買い占めているのでしょうから、新米が出回れば、すぐに古米は放出されますよ。高いお米は、買わないことです。 

 

 さて前回は、鎌倉期に奥州鹿角郡に入植した鹿角四頭(四天侍)の各氏

が、戦国期の鹿角郡42村で、どのように生き残っていたのかを、江戸前期

編纂の鹿角由来記から見て参りました。その中で、途中で消え去ってしまった成田氏惣領家の毛馬内氏に対し、奈良氏惣領家の大湯氏や、阿保氏惣領家の大里氏は、戦国期までしっかりと生き残っていたの

でした。ところがその大湯氏や大里氏も、戦国末期の九戸の乱で、遂に滅ぼされてしまったのでした。掲示の鹿角由来記、大湯村

(大湯氏=奈良氏)の説明箇所で、触れられていますが、「大湯氏の嫡子四郎左衛門は、天正19年(1591年)の九戸政実の乱で、

九戸方に味方したのだが、生け捕られ、九戸政実らと一緒に、三迫(さんのはざま)で切腹した。弟の治郎左衛門と彦左衛門は、

津軽に落ち延びた。」とのことです。まあ全国的には全然知られていませんが、江戸期の南部藩領民にとって九戸政実の乱とは、

自明のことだったのでしょう。何故なら九戸政実の乱の、一方の主役である南部(石川)信直は、遂に藩祖として祭り上げられて

いたからです。その一方で、掲載頁の前のページに、大里村の説明文があるのですが、大湯四郎左衛門と一緒に籠城し、同様に

三迫で切腹したにも拘わらず、大里修理の方の説明は、鹿角由来記では何もないからです。多分、首謀者の一人なので、口にする

のも汚らわしい、ぐらいに思っているのでしょうね。南部氏側にとって、九戸の乱は常識だからです。大湯氏については、南部氏

の側でも、あまり良く知られていない氏族?なので、一応大湯氏については解説を付けておいた、という感じだと思われます。

 ところがです、岩手県民にとって常識であるハズの九戸政実の乱を、多くの日本国民は知りません。戦国時代国内最後のいくさ

ですし、豊臣秀吉の大規模な戦いであったにも拘らず、どうしてこれほど知られていないのでしょうか? 私はこの点こそが、

九戸政実の乱を解明・理解するためのカギになると考えています。つまり、九戸政実の乱は何故、世間に広まらなかったのか?

なんです。これを知るためには、九戸政実の乱を、重層的に見て行く必要があるのです。で、まずは勝者である三戸南部氏

(南部藩)側の見方です。南部氏とは、始祖南部光行が奥州合戦での戦功により、頼朝より、奥州糠部郡(岩手県北部、青森県

東部)を与えられ入植したことに始まる?、とされています。(糠部郡など無かった?)南部光行の子孫が、糠部郡の各村に

入植し、それぞれの地名を氏として、一戸氏、三戸南部氏、四戸氏、七戸氏(久慈氏)、八戸氏(根城南部氏)、九戸氏等を

名乗るようになります。南部氏の惣領家は、三戸南部氏でした。本当かな?、(鹿角由来記の展開と同様の伝説、)

そして戦国期に入ると、南部氏24代晴政の代には、各南部氏系氏族を統一し、最大領地(岩手+青森)を誇ったのですが、

晴政に最初男子が無かったため、娘婿信直(石川信直)が26代を相続すると、信直後継を不満とする九戸氏、大浦氏(津軽氏)

等による内乱が勃発します。しかし九戸一味の叛逆を、豊臣秀吉の奥州再仕置軍の助力を受けて、信直がこれを制圧すると、

再度南部領を統一し、遂に南部信直は、その後の南部藩の藩祖と呼ばれるような存在になったのだ、というような理解です。

この通りの理解が史実だったとしたら、南部氏(南部藩)側としては、何ら恥じることはないと、言えるのですがねえ、、、

 

 これが、豊臣政権側では、九戸政実の乱については、どのような見方だったのでしょうか? まず秀吉にとって第一の命題

は、天下統一でした。もはや平定されていないのは、関東と奥州だけになっていました。天正十八年(1590年)小田原征伐後、

秀吉軍はそのまま奥州仕置(征伐)へと向かいます。7月中に宇都宮まで進軍した秀吉軍は、この地で奥州諸大名に対する仕置

(朱印状発行)を行います。この時小田原に参陣し、恭順の意を示していた南部信直や津軽為信、伊達政宗、佐竹義重等は、

所領を安堵されます。南部信直は、大浦(津軽)為信を反逆者と訴えますが、秀吉からは却下されてしまいます。どちらも秀吉

の家臣になりましたからね。家臣同士は争ってはいけないのです。その後秀吉の奥州仕置軍は、巡回行軍を行いますが、秀吉は

途中で宇都宮に戻ってしまい、蒲生氏郷、浅野長政を筆頭とする仕置軍も、平泉まで、大きな抵抗もなく進みますが、平泉で

奥州代官に引き継ぎ、仕置軍は引き上げます。つまり秀吉の第一次奥州仕置は、大した障害(戦)もなく無事終了したのでした。

ここに秀吉の天下統一は完成したのでした。少なくとも秀吉を始め、豊臣政権の面々は、天下を統一したと思っていました。

 ところが、翌天正十九年(1591年)正月、南部信直の家臣であるハズ?の九戸政実が、反乱を起こした訳です。最初秀吉側と

しては、南部信直の家臣の反乱なので、信直に対してちゃんと対処せよ、というスタンスだったと思われます。単なる家臣の叛逆

と考えていたので、すぐに鎮圧されるハズと思ったのでしょう。ところが九戸政実ら反乱軍は、めっぽう手強い訳です。南部信直

側は、劣勢になります。(浅野家文書)南部信直側は持ちこたえられなくなり、嫡男南部利直を京都に派遣し、秀吉に助力を求め

ました。仕方なくこれに応えた秀吉は、6月に甥の豊臣秀次を総大将とし、徳川家康、上杉景勝、大谷吉継、前田利家、石田三成、

佐竹義重、伊達政宗、最上義光、蒲生氏郷、浅野長政らを将とする、総勢6万もの奥州再仕置軍を編成します。豊臣オールスター

軍団ですね。対する九戸方は、僅か5千の軍勢でした。と言う訳で、九戸方の奮戦もむなしく敗れ去り、主君への叛逆の罪により、

九戸方は、皆殺しにされたのでした。豊臣方としては、南部氏の求めに応じ、悪を成敗してやった、という認識だったと思います。

まあ豊臣政権側としては、大軍の派遣とは言え、安全パイの戦だったので、些末な出来事としての認識だったのでしょう。

ですから九戸の乱は、大規模な軍事力行使にも拘わらず、豊臣政権側としては、家臣間の争いですから、一揆の鎮圧レベルの戦い

として、矮小化したのでした。兵力6万対5千ですからね、戦果を誇る気持も、気恥ずかしかったのでしょうね。

しかし南部信直側は、自分では勝てない反対勢力を、豊臣政権の軍事力を借りて制圧し、更には、豊臣政権の権力と威光を借りる

ことによって、南部氏内部の統一を、正当化することが出来たのでした。(大儲けですわね。) 

 

では、反旗を翻し、敗れた側の九戸政実側や、北岩手、鹿角の人々の乱への認識は、一体どうだったのでしょうか? 九戸側の

証言は、全て消し去られているんですけどねえ、、、。(次回へ)