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羹に懲りて膾を吹く、と言うことわざがありますが、先日までの南海トラフ地震臨時情報(注意報)による各地の中止対策や、
昨日までの台風7号対策もしかり、なのですが、大騒ぎした割には空振りに終わることも多いようです。これをどう見るのか?
なんです。しかしよく言われる、ほら何ともなかったじゃないか!は、所詮結果論なんですよね。その意味で、未来は誰にも
判らない訳ですから、最悪の事態に対する備え・対策は、何事も無くとも、やはり必要なのだろうと思われますけどねえ。
さて前回は、南部叢書1、鹿角由来記の「鹿角郡四天侍之事」の章で、阿保氏、成田氏、奈良氏、秋元氏が、地頭(領主)
として鹿角にやって来たことを見て来ました。しかしこれは、頼朝の奥州征伐(1189年)後の事績です。成田七郎助綱とか、
奈良五郎・彌五郎、安保五郎・六郎(吾妻鏡)らに対する恩賞として、ですわね。つまり、鎌倉期のことです。鎌倉期の事績
である、傍証もありますよ。(※吾妻鏡 建保五年4月5日付、成田次郎と奥州住人深沼五郎との刃傷沙汰事件の記述。)
※まあ秋元氏の方は、どうして鹿角に来たのか、良く判りませんけどね、また途中で断絶しているみたいだし、、。
で、それがどうして戦国期なのだ?、との疑問への答えが、掲示文書「鹿角郡四十二館に侍四十二人居候事」から判るのです。
まずは左側の掲示文書からなのですが、実はこの前に「鹿角郡四天侍之事」の章から続く「鹿角郡四十二館に侍四十二人居候事」
のタイトルと、1行のみの田山村についての記述があるのですが、重要ではないのでカットしています。要は鹿角郡42村の領主
について、ひとつひとつ書かれている訳です。で、まずは左側文書の右から2行目、湯瀬村からです。曰く「湯瀬村は、湯瀬中務
(本名は成田)の領地であった。その後に、一戸から来た湯瀬刑部(本名は安部)の領地になった。館(城)あり。」だそうです。
次が「長峯村は、長峯下総(本名は成田)の領地であった。館(城)あり。」です。その次も「三ヶ田村は、三ヶ田左近(本名は
阿保)の領地であった。館(城)あり。」と言う形で、各村の領主名とその領主の家系を記録している訳ですね。鹿角由来記の
成立は江戸期ですから、この時点での鹿角郡は、南部藩領です。従ってこの文書は、南部藩に編入される以前の各村の由来(歴史)
を、記録した文書であることが判るのです。各領主は、村名(地名)を氏として名乗っていたことも判ります。だから本名(姓)も
、別にある訳です。そして各村領主の本名は、四天侍の系統(成田、阿保、奈良、秋元)が、つい最近まで、継承されていたこと
を示しています。更には次の、谷内村や長牛村の記述を見ると、その後に南部氏系の領主に変わっていても、それ以前の領主の
家系の記憶が、しっかりと残されているのでした。これは記憶がまだ新しいことを示しています。つまり、南部藩領になる直前の
記憶であろうと考えられるのです。それが証拠には、左頁、鹿角郡の中心地のひとつ、花輪村(阿保氏系)の記述では、天正八年
(1580年)との記述さえあるからです。戦国期の藩祖、三戸南部氏信直の名前も、この章では何度も登場していますからね。
江戸期に記憶されていた戦国期の記述である、と確定したところで、続きの真ん中掲示文書に移ります。右から3行目、新斗米
(あらとまい)村の記述で、ようやく本名奈良が登場します。鹿角の奈良氏も、鎌倉期の入植から戦国期まで、しぶとく生き残って
いたのですね。そして続いて大湯村の記述になります。大湯(奈良)~左衛門が、代々領主であり、大湯氏が鹿角奈良氏の惣領家
であったそうです。「嫡男は四郎左衛門、次男は治郎左衛門、三男は彦左衛門といった。この四郎左衛門は、天正十九年(1591年)
の九戸政実の乱で九戸方に味方し、九戸一味と一緒に捕らえられ、三迫(さんのはさま)で切腹させられた。治郎左衛門と彦左衛門
は、津軽へ落ち延びた。後に治郎左衛門は、津軽氏に召し抱えられ、知行二百石を拝領した。彦左衛門も津軽氏に奉公した。その後
の大湯村は、大湯五兵衛の領地となった。(※左衛門=奈良氏系ではないようですね。)」とのことで、かなり衝撃的内容です。
このことから、鎌倉期から続いた鹿角奈良氏の惣領家系(大湯氏)は、九戸政実の乱により断絶し、子孫は津軽へと逃れたことが
判ります。つまりその後の大湯五兵衛は、大湯氏を名乗ってはいますが、左衛門ではないので、奈良氏系ではないのです。(多分、
南部氏系でしょうね。)
この九戸政実の乱については、後述させて頂く予定ですが、取り合えずその後の本文を先へ進めます。次の小枝指村も、奈良氏系
でした。その次の神田村は成田氏系で、その次が問題の毛馬内町になります。江戸期で、村ではなく町ですからね、当時は鹿角郡の
中心地だったのでしょう。「毛馬内町は昔、毛馬内備中の領地で、本名は成田で、この毛馬内氏は、鹿角成田氏の惣領家であった。」
だそうです。
しかし、「その後、天文年間(1532年~1555年)に、南部靱負信継=毛馬内秀範が、三戸から派遣されて来て領主になった。」
とのことです。知行は二千石で、多くの村々から成っていたようです。もちろんこの頃の鹿角の中心地は、毛馬内ですね。
さて、この記述をどう読み解くか?、なのです。まず元々の毛馬内村は、毛馬内備中の領地で、本名は成田、鹿角成田氏の惣領家
だったそうです。しかし室町後期の天文年間に、三戸の南部氏系に領主が変わっている訳です。つまり鹿角成田氏の惣領家系は、
比較的早くに断絶していたことを意味しています。私はこれ、鹿角成田氏が南北朝期に、南朝方であったことが関係していると
思っています。結局敗者ですからね。(南部氏は北朝方、)でも他村ではまだ、成田氏系も残っていたようですけどね。
そこで、鹿角郡における鹿角成田氏の変遷について、見て行きたいと思います。鎌倉期は、鹿角四頭の入植以来、成田七郎
助綱を祖とする鹿角成田氏が、鹿角四頭のリーダー的存在であったと思われます。何と言っても、武蔵成田氏(成田次郎)は、
執権北条泰時の内衆でしたからねえ、当然鹿角成田氏は、本領の武蔵成田氏とも交流がありました。問題は、鎌倉幕府(北条氏)
の滅亡後なんです。時代は南北朝期に突入します。鹿角でも国人領主間の結びつきは弱くなって行きます。南朝方に付くのか、
北朝方に付くのかは、かなり微妙になりますからね。(都から遠く離れた奥州は、いつも中央の情勢の様子見になるのですよ。)
それでも南北朝初期までは、鹿角成田氏の成田頼時は、陸奥守鎮守府将軍北畠顕家の家臣として、南朝方として戦っています。
(北畠顕家文書)ということは、この時点までは、鹿角郡全体が、南朝方であったと考えられます。(南朝方が優勢だったから?)
しかし北畠顕家が北朝方に敗れ、敗死すると、状況は激変します。奥州各地で、北朝方(足利尊氏)に付く者も現れて来たから
です。具体的には、鹿角郡の東北隣りの南部氏です。元々は南部師行などは北畠顕家の家臣だったんですけどねえ。しかし南朝方
が敗走すると、三戸南部氏などが、北朝方(足利尊氏)に寝返ります。これは、本領の甲斐南部氏の動きに影響を受けたものと
考えられています。いずれにせよ、鹿角郡の周辺は、徐々に北朝方が優勢になって行きました。それにつれて、三戸南部氏の勢い
も強くなり、相対的に影響力の衰えた鹿角成田氏や諸領主(旧南朝方)は、南部氏に従属しなければならない状況になっていった
のでした。こうして何とか持ちこたえていた鹿角の盟主成田氏(毛馬内氏)も、天文年間(室町後期)には、三戸南部氏に、奪い
取られてしまったのでした。実は、南北朝期の成田氏の本領、武蔵国の方では、安保氏が成田氏の領地を引き継ぐ、という事態も
起きています。(八坂神社文書)つまり、武蔵成田氏の系統は、この頃安保氏系に変わったのですね。この影響は、当然鹿角にも
及んだと思われます。 でも、大湯氏(奈良氏)や大里氏(阿保氏)が、戦国期まで生き残れたのは、どうしてなのでしょうか?
それは南部氏の内部が、絶えず内紛状態にあって、決着が着かなかったからなのです。大湯氏(奈良氏)や大里氏(阿保氏)の
惣領家も、南部氏内紛のどちらかの勢力に与していたため、逆に何とか滅ぼされずに済んでいたのです。ですから鹿角も、実質的
には南部氏の支配下には入っていたのですが、南部氏の内部が、実は統一されていなかったので、捨て置かれていたのでした。
この章、鹿角42領主の最後は、高梨子館村で、高梨子土佐の領地で、本名秋元氏だそうですが、高瀬村高瀬周防の一門だったよう
です。ということは、秋元氏の惣領家は、高瀬氏を名乗っていたようです。高梨子氏の方は子がなく、途絶えたようですが、後継
はやはり、三戸南部氏から派遣されたそうです。やはり鹿角は、徐々に三戸南部氏に浸食されて行ったのでした。そして戦国末期、
最後まで鹿角に残っていた、奈良氏と阿保氏の惣領家大湯氏と大里氏も、九戸政実の乱で豊臣秀吉によって滅ぼされ、鹿角は遂に、
三戸南部氏の領地に統一されたのでした。(南部氏によって、じゃあないよ。) さて、その九戸政実の乱とは?(次回へ)




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