· 

戦国期に注目された奈良氏とは?Ⅱ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

連日のパリ五輪報道に浮かれていたら、夕方突然、宮崎県で震度6弱の

大地震が襲って来ました。幸い被害は、さほどでもなかったようですが南海トラフ巨大地震の前触れか?とか言われています。でもあまり気に

する必要はないと思いますよ。だって今年の最初の大地震は、能登半島

でしたし、昨日の地震は小田原でしたからね。南海トラフ地震の範囲とは違います。次どこで起きるかなんて、実は誰にも判らないのですよ。

 

 さて前回からは、時代を戦国期に移して、注目される奈良氏の動向に

ついて探っています。前回は西讃府誌より、天正十年?(1582年)の

長曾我部元親による、讃岐奈良氏の滅亡劇を、見て参りました。

で今回は、以前の鎌倉期でも登場した鹿角由来記の戦国期再登場です。

まずは左頁「鹿角郡四天侍之事」です。鹿角由来記とは、昭和二年に、

太田孝太郎等により編纂・刊行された、江戸期の南部藩に残されていた各史料を収集した「南部叢書」の第1冊

内に収められている文書です。まあ前回のテーマで活用された、讃州細川記「香川叢書」の岩手県版のようなもの、

ですね。で今回の掲示文書は、国立国会図書館蔵のデジタルコレクションのものです。

鹿角由来記は活字化されていますが、同様の古文書集としては、奧南落穂集という同類書も存在しています。

しかし記述内容は、どちらも南部藩寄りの記述ですが、内容は微妙に異なっています。奧南落穂集の方は現在、

近世こもんじょ館が管理・発信しているようです。鹿角由来集は、四天侍の記述が、由来記とほとんど同じです。

また広く、鹿角由来記と言われていますが、正しくは、鹿角郡由来記であるようです。鹿角郡は、現在でこそ、

秋田県下であるのですが、戦国期から江戸期にかけては、南部氏(岩手県?)の強い影響下にあったのでした。

しかし元々鹿角郡は、秋田氏(安東氏)と南部氏の間で境界を接していたため、領地争いが絶えない地域だった

のです。最終的に秋田県に編入されたのは、秋田藩が官軍で、南部藩が幕府方の奥州列藩同盟だったからですよ。

(ちなみに、南部藩と昔から仲が悪い津軽藩も、やはり官軍でした。)

 

 で、鹿角由来記の最初の記述は、上古よりの鹿角郡の成り立ちについての伝説が、いくつか書かれています。

そして掲示ページの「鹿角郡四天侍之事」になるのですが、実は年代が書かれていません。そこでひとつ前の

記述「高橋還始之事」を見ますと、永喜?二年(大同二年)の記述があります。内容は天狗が飛来した伝説

ですから、平安時代の大同二年(807年)の方を採用すると、次の「鹿角郡四天侍之事」は、鎌倉前期あたりの

記述だろうと推測されるのです。侍が出現していますからね。更には「鹿角郡四天侍之事」の次は、それを受けての

「鹿角郡四十二館に侍四十二人居候事」で、その後どうでも良い「鹿角郡鎮守稲荷之事」と続き、最後のお話しは

「鹿角郡侍於八嶋討死之事」で、これ、源義経の屋島の合戦で、鹿角の出身者が討ち死にした、とのお話しなんです。

ですから、その間の「鹿角郡四天侍之事」の年代は、頼朝の奥州合戦後あたりのことであろう、と考える訳なんです。

 いずれにせよ、これらの鹿角由来記は、末尾に天保三年(1832年)6月に書かれ、小笠原謙吉なる人物が校訂を

おこなった、と書かれています。まあ同時代史料ではないので、断定は出来ないにせよ本文、「都(鎌倉?)から、

安保氏(大里氏、花輪氏)、成田氏、奈良氏、秋元氏が、地頭(四天侍)として下って来た。」ことは、戦国期の九戸

の乱や、その後の発掘調査報告の結果を見ても、明らかだろうと思います。私は地頭(代官)だったと思いますよ。

何故なら鹿角由来記の最初に、古来鹿角郡は、朝廷の領地だったと書いていますからね、奥州藤原氏が支配していた

のも、あくまで皇室(朝廷)の領地の代官としての立場で、鹿角郡を支配していただけの事なのですよ。

また「鹿角郡四天侍之事」で、安保氏(大里氏)が先に入植してきたと書いているのは、これが書かれた江戸期の認識

なのだろうと考えられます。何故なら南部氏支配以前の戦国期の鹿角郡のリーダーが、大里氏(安保氏)だったからです。

更には、それより以前の鎌倉期の盟主、成田氏の存在が、その後(南北朝期の南朝方、北畠顕家以降)の鹿角の地では、

忘れ去られてしまったから、なのだろうと、思われるからです。※結局南朝方は敗者、賊軍ですからね、、。勝者の側

からは消されるのですよ。(九戸の乱の九戸一味も同じ?)

でもこの鹿角由来記「鹿角郡四天侍之事」の記述の、いったいどこが、戦国期の奈良氏と関係すると言うのでしょうか?

それは、次の章「鹿角郡四十二館に侍四十二人居候事」の記述と、そのまま繋がっているからなんです。

じゃあ鎌倉時代の事だろう、ですって?、それが違うんですよ。何故なら「鹿角郡四十二館に侍四十二人居候事」は、

後の南部藩に接収される以前の、戦国末期の鹿角郡の状況について、書かれているからなんです。何故そのように判断が

出来るか?というと、毛馬内氏の記述から、なんです。成田氏の惣領家であった毛馬内氏が、南部氏系に変わったのは、

室町期以降のことだからです。そうするとつまり、鹿角郡の鎌倉期の四天侍の末裔達(大里氏や大湯氏)が、部分的では

あるが、何とずっと、戦国末期まで続いていたのだ!、とも言える記述なのですよ。(次回へ)