いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。 毎日猛暑が続いているので、外を出歩くのは危険です。そこで
ついつい、クーラーの効いた家の中にこもりがちになってしまいますが、最近はTVで、NHKプラスやTverなどの無料見逃し配信を
よく見ています。これら配信の普及により、DVDレコーダーや録画用ハードディスクが不要になりました。番組をじっくり見るよう
になって改めて感じたのは、流行りのYouTube配信などに比べて、TV局番組の内容クオリティが高いと感じた点です。YouTube配信
は、作り手の熱意は感じられますが、充分にこなれていないように感じられるのです。つまり、深みが無いのですよ。 さらに言え
ば、これらの浅いYouTube配信によって影響を受ける、若者たちの思考そのものも、善か悪か?、得か損か?、好きか嫌いか?、
面白いか面白くないか?等々、実に感情的で浅薄になって来ているように見えるのですがねえ、、、。
さて今回で、南北朝期の細川氏と奈良氏との関係を探るテーマは終了です。東寺百合文書には、その後、奈良氏についての記録が
見当たらないからです。細川氏の被官で、摂津守護代であり、垂水荘を管理していた奈良氏は、消え去ってしまったのでしょうか?
実はそんなことはない、というのが私の主張になります。東寺百合文書からは消えていても、高野山文書や、摂津国守護関係の文書
からは、その後も時々、奈良氏の名前が散見されるからなのです。永徳年間(1381年~)からは、奈良五郎左衛門入道に代わって、
奈良又四郎の名前が見られるようになります。(まだ細川頼元の時代です。)多分、五郎左衛門入道(俊阿)から、代替わりしたの
でしょう。さらにその後、応永年間(1394年~1427年)の後半には、今度は奈良元俊(信濃入道)の名前が散見されるようになり
ます。この時の摂津国守護職は、頼元の子細川満元です。で彼ら又四郎、元俊も同様に、摂津守護代を務めていたようなのですよ。
(※尼崎市史より)私、奈良元俊(信濃入道)の名前は、細川頼元から元の字をもらい、祖父の五郎左衛門入道=俊阿から俊の字を
貰ったのだろう、と思っていますけどね。まあ推測ですがね、
どうですか? 細川頼之~細川頼元~細川満元へと、細川京兆家は続いて行く訳ですが、奈良氏の方も、五郎左衛門入道~又四郎
~元俊へと、同様にペアのように続いているのですよ。まるで奈良氏が、細川家の家宰のようではありませんかね? 私には、その
ように見えるのですがね? つまり細川京兆家の重臣としての奈良氏は、その後もずっと続いていたのです。だからこそ、江戸前期
に、香西成資によって書かれた「南海治乱記・南海通記」の中で、管領細川勝元の時代(1460年代)を描いた「細川定四臣紀」で、
奈良太郎左衛門尉元安が、細川家四天王の一人として、登場している訳なのです。奈良元安が、突然登場した訳ではないのですよ。
「南海治乱記・南海通記」が当時のベストセラーになったので、知られざる奈良氏の存在が、突如注目されただけ、のことなのです。
ですから、西讃岐史や宇多津の聖通寺城を語るネット情報などでは、奈良五郎左衛門入道と、有名な奈良太郎左衛門元安の事績を、
混同して伝えている記述が多いのです。(年代は100年も、ずれているんですけどねえ、、。)
で、今回の左掲示文書(ア函/140/)なのです。文書名は「喜阿摂津国垂水荘年貢請文」だそうです。応永二十年(1413年)
7月13日の文書だそうです。内容は、喜阿という人物が、垂水荘の年貢(の徴収)を請け負った、という文書です。現代で言う
請書ですね。宛名は東寺です。さてこの喜阿という人物は誰か?、なんです。出家名ですわね、しかも花押があると言うことは
武士です。しかし東寺百合文書Webでは、喜阿については、特に判らないのでしょうね、何も書かれていません。
しかし私には、ある人物である確信があります。年代的にも符号するからです。その人物とは、奈良五郎左衛門入道=俊阿の嫡子、
摂津守護代奈良又四郎です。彼が出家して喜阿を名乗ったのですよ。まああくまでも推論ではあるのですが、確度は高いと思われ
ます。そして喜阿が奈良又四郎であったとすれば、奈良氏による摂津垂水荘の支配が、その後も続いていたことが判るのです。
その後の垂水荘の下司職=代官は、飯高弾正から長野?⇒浜(内藤?)守満⇒河合?⇒細田?と、ころころ変わり、1430年代に
ようやく、代々榎木氏が代官職を引き継ぐようになりましたが、その裏にはずっと、奈良氏がいたのだと、考えられるのです。
ではいつまで続いたのか?、それをうかがわせる史料が、右掲示文書「西讃府誌」の一節なのです。西讃府誌とは、江戸末期の
丸亀藩によって編纂された、西讃岐の地誌なのですが、この中に、室町期の讃岐奈良氏についての記述がありますので掲示します。
曰く「奈良氏は東国の出自らしいが、詳しくは不明、」だそうです。※何言ってるの!、細川京兆家だって東国出の同郷出自です
よ。だから細川頼之以降、代々の細川氏当主は、武蔵守を名乗っているのですよ!(本領だった、三河守じゃあないのよ。)
で、「応仁期(1460年代)に、太郎左衛門元安という人物が出た。」※それ以前の奈良氏の記憶は、忘れ去られている訳ですね。
「細川氏の家臣として、細川四天王の一人と呼ばれた。」※南海治乱記・南海通記の受け売りですな。
「その昔、宇多津・那珂の二郡は、公家の所領であったが、細川氏はこれを取り上げ、馬回り役であった元安に与えた。」※ここで
間違いを書いたので、讃岐奈良氏についてのウソ情報が広まったのでしょう。犯人は丸亀藩です。正しくは、白峯合戦の後、細川
頼之が、宇多津の地を、奈良五郎左衛門に与えたのですよ。「元安は城(聖通寺城)を宇多津に築いて住んだ。」※五郎左衛門と
元安を混同しています。で、ここからが大事です。「元安の子は備前守元信といった。京都に住んで、管領家(京兆家)の家宰を
務めていたので、畿内にも所領を持っていた。」です。この部分は、室町後期の記述ですよ。さて、畿内の所領って、いったい
どこなんでしょうかねえ? これはもちろん、摂津垂水荘のことですよ。即ち、摂津垂水荘は、室町後期まで、奈良氏の支配下に
あったことを表しているのです。讃州細川記、東寺百合文書、高野山文書、南海治乱記・南海通記、西讃府誌と、繋げて読むと、
知られざる奈良氏の姿が、五郎左衛門入道⇒又四郎⇒元俊⇒元安⇒元信⇒元政と、はっきりと理解出来るようになったのでした。
さて西讃府誌の奈良氏のその後の記述は、元信の子元政の代に、長曾我部元親によって滅ぼされる様子が詳細に描かれています。
こうして鎌倉期から続いた、武蔵国出自の、摂津・讃岐の奈良氏は、終えんを迎えたようです。しかし武士をやめて農民になった
奈良氏の末裔達は、摂津でも讃岐でも、その後もしぶとく生き延びたようですね。そのことは、現在の名字人口分布が、まさしく
証明している事実なのですよ。(この項了)



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