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南北朝期の細川氏と奈良氏の関係とは?Ⅸ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。 今まで日銀が何兆円もつぎ込んで、為替介入を行っても

効果は一時的で、すぐに160円台に戻っていた円ドルレートでしたが、今週のトランプの一言で、あっという間に円高に

振れて、現在は155円台で推移しているようです。それほどまでに、日本には国力が無くなって来ているようです。既に

老人国家なんですね。昔の夢を追って、先端半導体などに、ばくち投資を行うよりは、日本の誇る伝統文化や伝統産業を

紹介、アピールした方が、世界(インド、アジア、アフリカ、中南米)は、買ってくれる気がしますけどねえ、、、

老人なんですから、もはや、大きく儲ける・拡大する、ジャパンアズNo.1?などは、今は全然必要ないのですよ。

 

 さて前回は、東寺領である摂津国垂水荘の支配権を巡る、東寺側と奈良氏側との争いについて、東寺百合文書の中から、

永和四年(1378年)の「垂水荘百姓等申し状」(メ函/315/)と、永徳三年(1383年)の室町幕府管領 斯波義将による

「室町幕府御教書」(り函/67/)※今回左側掲示文書 を見て参りました。

まあこれらの東寺文書だけを見ていると、奈良氏とは、とんでもない悪徳代官だと思われそうです。本当は、旧領家である

東寺側が、新参勢力奈良氏側を排除するためのプロパガンダ作戦なんですけどねえ、、。もっとも、奈良氏(細川氏)の側も、

東寺側の既得権益を脅かすような行為も、多分あったのだろう、とは思いますけどね。 しかし下司職(奈良氏)を攻撃する

だけでは埒が明かないので、奈良氏の後ろ盾である細川氏へも訴えて、東寺の既得権を守ろうとしたのが、前々回の文書だった

のでした。しかしそれでもまだ埒が明かず、前回は、細川氏の政敵(斯波義将)が幕府の実権を握ったことを東寺側が利用して、

室町幕府を活用するため「百姓等申し状」を提出させ、それに応えた反細川派の幕府が、幕府御教書を発行した、と言うのが、

多分真相だったのです。まあしかし、奈良氏を含めた細川氏側は、まったく意に介さない訳です。室町幕府の権威など、実は

全くないのですね。室町幕府とは、有力守護大名達が仕方なく連合して、お飾りの足利将軍を立てて、かろうじてバランスを

保っているだけの弱い政権だからです。そんな幕府の御教書(指示書)ですから、何の影響力も無かったのは、当然のこと

だったのでした。ただ奈良五郎左衛門入道=俊阿は、既に垂水荘の下司職ではないのですが、東寺側(幕府側?)と、奈良氏

を含む細川氏側との対立、という争いの構図自体は、その後も延々と続いて行ったのでした。

 

 で、今回の右側掲示文書(京函/74/)なのです。こちらも管領斯波義将が発行した、室町幕府御教書です。発行年は前回の

1383年12月24日から半年後の、1384年5月10日の日付です。差出人は前回同様、左衛門左=管領斯波義将で、宛名の方は、

細川右京大夫=摂津国守護細川頼元です。(今回は、細川の川の字を、わざと河と間違えたりはしてはいませんが、、。)

文書の内容も、前回と同様です。訴えている東寺側の雑掌の名前が、「頼縁」だと判明したぐらいです。「相変わらず、垂水荘

の下司職(奈良氏系)のことを、けしからんと言っているらしいが、どうする?」、ぐらいの内容です。とても最初の御教書から

僅か半年後に出される御教書とは思えません。斯波義将は、どうして同じ内容の御教書を、二度も続けて出したのか?、なの

です。私は、斯波義将が、政敵細川氏を打倒しようとして、これらの御教書を出したとは思えません。あくまでも、東寺側からの

要請があったので、仕方なく出したに過ぎないと考えます。 斯波義将は、こんな御教書に効果があるとは思っていないからです。

効果があるかも知れないと、御教書に期待するのは東寺側だけなのです。幕府という名前は同じでも、鎌倉幕府と室町幕府では、

幕府の名前の重さが全然違うのです。頼朝はすごかったのですよ。なので室町幕府とは、名ばかり幕府と言えるかも知れません。

 

 ちなみに、1376年に奈良氏(細川氏)系の下司職が誕生する以前の、1360年代の垂水荘の下司職(代官)は、赤松氏が摂津国

守護でしたので、任命されていた下司職(代官)も、身内の赤松兵庫助という人物であったことが、東寺百合文書(ミ函/36/)の

記録から、明らかになっています。摂津守護が変わると、垂水荘の下司職も変わるのでしょうね。摂津国守護が細川頼元になった

から、奈良五郎左衛門入道が下司職になったのです。つまり細川氏の被官ながら、奈良氏と細川氏の間には、強い結びつきが存在

していた訳なのです。ですからその後、摂津国守護代奈良俊阿が、部下の飯高弾正忠に垂水荘の下司職を譲った後も、1384年

あたりまでは、垂水荘についての東寺側の抵抗は続いておりましたので、まだ奈良氏系の家臣が、下司職を継いでいたのだろうと

推測することが出来るのです。でも、既に老齢だったはずの奈良五郎左衛門入道=俊阿って、いつまで生きていたんですかねえ?

私は、1380年頃には既に死去していたのではないか?と、考えています。何故ならこの後少しの間、垂水荘下司職についての

東寺側からのクレーム文書で、奈良氏の名前が無くなるからなんです。と言うことは、南北朝期に、讃岐国と摂津国で活躍した、

細川頼之・頼元の重臣であった奈良五郎左衛門入道(俊阿)の奈良氏は、その後垂水荘の権益を失い、遂に歴史の表舞台から、

消え去ってしまったのでしょうかねえ?

 

いいえ、実はそんなことはないのです!、細川氏被官の奈良氏は、奈良五郎左衛門入道以降も、実は脈々と続いていたのですよ。

(次回へ)