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南北朝期の細川氏と奈良氏の関係とは?Ⅷ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。 本日はまだ少しマシなようですが、連日猛暑か大雨か?、の

2極天気が続いています。極端から極端に振れるのですね。つまり地球環境のバランスが、既に保てなくなって来ている訳です。

多分、バランスを欠き始めているのは、地球環境だけじゃないですね、今や政治・経済も同様ですよ。都知事選挙も、円安も、

極端から極端へと振れているのです。国民意識から、バランス感覚が失われて来ているので、今後も世の中は、極端から極端へ

と、大きく振れて行くのでしょうね。最後は、死ぬか生きるか?の、戦争ですね。

 

 さて前回は、東寺百合文書の讃岐公宛ての文書と讃州細川記の「頼之岡蟄居之件」や「細川諸士之事」の記述を比べる中で、

讃岐奈良氏が鎌倉期の奈良氏と繋がっていて、細川氏(頼之・頼元)と特別な関係であったことを確認させて頂きました。

更には東寺文書を通じて、旧勢力である東寺側と新勢力(武士)奈良氏(+細川頼元・頼之)との、垂水荘を巡る激しい攻防が、

1376年9月に、色々あったことも、同時に見て参りました。

今回は新たな東寺文書から、1376年9月以降の東寺側の更なる反撃について、何と3通もの書状!を、見て行きたいと思います。

 

 まずは左側掲示文書(メ函/315/)からです。文書名は「垂水荘百姓等申状」だそうです。お百姓の反乱ですかね? 日付は

11月7日だそうですが、年は記されていません。ただ、東京大学史料編纂所の日本古文書ユニオンカタログによりますと、この

文書と同じ内容の東寺記録文書に、永和四年(1378年)の記載があることから、この文書も、1378年11月7日の文書だったので

あろうと思われます。(何しろ控え文書ですからね、コピーはいっぱいあるのですよ。)前回の摂津守護代、奈良五郎左衛門入道

(俊阿)を糾弾する文書から、2年が経過しています。今回の文書は、東寺領垂水荘のお百姓が、摂津守護代である奈良弾正入道

を、奉行所に訴える、という形の文書です。2年経過して、奈良五郎は、左衛門から弾正へと、官位が上がった?ようですわね。

しかしですね、思い出してみて下さい。永和二年(1376年)9月11日の文書(ア函/84/)で既に、奈良五郎左衛門入道=俊阿は、

垂水荘の下司職を、飯高弾正忠に譲っているので、名目的にはもはや、垂水荘とは関係ない人物なハズなのです。それが2年後の

百姓等の訴え状にも、守護代奈良弾正入道の名前で、奉行所に訴えられているのです。(多分、飯高弾正忠と混同していますね。)

これをどう見るのか?、なのです。垂水荘の百姓等も東寺側も、飯高弾正は傀儡で、裏の支配者は奈良五郎左衛門入道であると、

皆んな知っていたから、なのですよ。だから名前がごちゃまぜになっているんです。私は垂水荘のこの奈良氏による支配構造が、

ずっとしばらく続いたのだろうと思っています。垂水荘の下司職(代官)が代々代わって行っても、なんです、、、。

まあしかし、東寺側が複数のこのコピー文書を、後生大事に保管していたことを考えると、百姓等の自発的訴え?と言うよりは、

東寺側が百姓等をけしかけて、訴えさせた文書かも知れない?とも思えます。第一この時代のお百姓は、字が書けませんからね。

(お百姓さんを馬鹿にしている訳ではありませんよ。)まあ真相は藪の中なのですが、奈良五郎左衛門入道の上司である細川氏に

いくら訴えても埒(らち)が明かない、となれば、東寺側の考えそうな事である訳です。いずれにせよ、摂津垂水荘を巡る東寺側

と、奈良氏(細川氏)側の対立は、その後もずっと続いていたのだ、という事実こそが大事なのです。

 

 で、この対立状況を反映した文書が、右側掲示の2つの文書(り函/67/、京函/74/)だと思われるのです。書かれたのは永徳三年

(1383年)と至徳元年(1384年)ですので、康暦の政変(1379年)で、細川氏一族が追放された後の文書なんです。そこで康暦の

政変と、その後の顛末を確認しておく必要があります。幕府管領細川頼之一族が京都から追放され、次の管領になったのは、幕府内

反対派で、細川氏の最大のライバル、斯波義将でした。こうして室町幕府管領斯波義将の時代は、しばらく続きます。将軍は相変わ

らず足利義満です。ところが政変の翌年1380年に、斯波義将は細川氏を更に追討するために、伊予の河野通暁らと結んで、蜂起を

促します。しかし讃岐に逃れていた細川氏一族に、あっけなく撃退されてしまうのでした。これにより、幕府内のパワーバランスに

変化が生じます。細川氏一族に復権の芽が出て来たのでした。反細川派である管領斯波義将にとっては、面白くない展開なのです。

ところが細川頼之はと言えば、前年の政変で既に出家してしまっておりますので、幕政に復帰するのは難しい状況だったのでした。

そこでまず1381年に、将軍義満から赦されて、弟の細川頼元が幕政に復帰します。そして永徳三年(1383年)には、頼元は遂に、

摂津国守護に復職したのでした。(頼之の方は、あくまで頼元の後見役としての復活、です。)

幕府管領である斯波義将にとっては、ますます面白くない状況になった訳です。 さてそこで、この真ん中の掲示文書(り函/67/)

なのです。文書名は、「室町幕府御教書」です。幕府御教書とは本来、主人である将軍足利義満の意を汲んで、家臣である管領

斯波義将が発行する指示文書なのですが、この文書には、将軍義満の意向が入っているとは、到底思えません。差出人は左衛門左

=管領斯波義将で、宛名は、細河!右京大夫=摂津国守護細川頼元です。日付は、永徳三年(1383年)12月24日になっています。

頼元が摂津守護に復帰してすぐ、と思われます。でその内容とは、室町幕府御教書としては、少し情けないような内容なのでした。

曰く、「東寺の雑掌(荘官)が訴えるには、摂津国垂水荘の領家職(支配権)の事だが、半済(年貢の徴収権)を認めた下司職

(代官)の家人(家来)が、濫妨(乱暴)を働いているらしいので、止めさせるように。」とのことです。まあよくこんな内容で、

幕府としての御教書が発行されたのですねえ。武力を持たない後白河上皇が、玉井四郎の乱暴・狼藉を止めさせるように、頼朝に

出された綸旨とは訳が違うのです。幕府は武力を持っているのですからね。と言う訳で、どうでも良い内容の御教書だ、で終わって

いた、この東寺百合文書だった訳なのですが、奈良氏の歴史を追求する我々にとっては、大変興味深い文書であると言えるのです。

1376年3月に、奈良五郎左衛門入道(俊阿)が、頼元から垂水荘の下司職を拝命してから、7年以上が経過し、1379年には、細川

頼元も、摂津守護の追放処分を受けているにも関わらず、垂水荘では、相も変わらず、東寺側と下司職側の争いが、この時点まで

続いていたことが明らかになったからです。そして頼元が摂津守護に復帰してすぐに、この嫌がらせのような文書が、幕府名で

発行されている訳です。(宛名:細河は、わざと間違えている可能性があります。)このことは垂水荘の下司職が、ずっと奈良氏系

であったことを示していると思われます。康暦の政変を経ても、下司職は奈良氏系のままだったのですよ。ですから東寺側は、摂津

守護に復帰したばかりの頼元へ、幕府管領斯波義将を使って、この文書を送り付けたのです。斯波義将としては、細川氏を攻撃出来

る材料ならば、内容など何でも良かったのでしょうね。斯波義将は、摂津の垂水荘のことなど、何も知らないハズですから、この

御教書を書かせたのは、間違いなく東寺側が仕組んだことに違いないのです。まあしかしこの文書によって、摂津垂水荘における、

下司職奈良氏?(飯高氏?)の健在が、明らかになった意義は大きいと思われます。

さて少し長くなりましたので、残る右側掲示の文書については、次回に。