いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。 いよいよ今年も、猛暑の夏が到来しました。まだ梅雨だというのに、
連日35度以上の天気が続いています。クーラー使用による消費電力は、うなぎ登りの予感です。しかし今月7月は確か、政府の電気代
補助が、まだ再開されない端境月に当たると思われます。(8月からですよ。)ですから今月は、値引きの無い高額請求が、今から
予想されるのですよ、恐ろしいですねえ、、。
さて前回は、東寺百合文書の中から、永和二年(1376年)9月18日に、東寺の公文職である公文本空=橘能継から、讃岐公宛てに
出された書状(左掲示写真)について、見て参りました。何故なら、奈良殿よりとか、垂水荘の下司職とか、飯高弾正の名前などが
書状の中に出ているからです。で、この讃岐公とは誰なのか?、東寺百合文書Webでは書かれていないのですが、私は、讃岐公とは、
室町幕府管領で、摂津国守護細川頼元の兄である、細川頼之のことであると、書かせて頂きました。当時の状況としては、まず同年
9月に、東寺の雑掌である頼憲が、東寺領垂水荘の下司職である奈良五郎左衛門入道の理不尽を、摂津守護細川頼元に訴える書状が
出されました。そして9月11日には、摂津守護代である奈良五郎左衛門入道=俊阿は、東寺領垂水荘の下司職に飯高弾正を任命する
書状を出している状況なのでした。これに続いて9月18日には、讃岐公宛ての関連書状が出されている訳です。果たして讃岐公とは、
細川頼之なのでしょうか? 今回は、その検証です。そこでご覧頂きたいのが、右掲示写真の文書なのです。これ、以前もご覧
頂いた、讃州細川記での康暦の政変を描いた部分です。以前は、奈良太郎の名前が再び登場して来たことで、まずご紹介させて頂き
ました。しかし今回は内容の方です。まずは「頼之諫言之事」で、康暦元年(1379年)春、細川頼之が有力諸大名居並ぶ中で、
二十歳になったばかりの若き将軍足利義満を諫めます。これに激怒した義満は、管領頼之ら一族を解任し、細川一族の京都の館を
焼き払ってしまいます。(実際の史実とは異なりますが。)で、細川一族は揃って都落ち、となる訳です。(こちらは史実です。)
そして本文は続いて、「頼之岡蟄居之事」になります。都落ちに際して頼之は、剃髪出家し、常久と号したそうです。そして
4月7日細川一族は揃って都を出立します。その後4月12日に、落ち延び先に到着したそうですが、その場所こそが、讃岐国の歌津
(宇多津)だったのでした。何故、避難先が讃岐国であったのか?、なのです。元々頼之の親戚が、2代に渡り讃岐国守護を務めて
いたのですが、1362年の白峯合戦で細川清氏を打ち破った後、頼之が讃岐国守護を務めるようになっていました。しかし落ち延びる
のならば、まずは自分の生まれ故郷(本領)=三河国細川郷じゃないか?、と思われますけどね。どうして讃岐なのでしょうか?
この理由の一つとして挙げられるのが、同じ讃州細川記で最初にご紹介した「細川諸士之事」の記述なのです。「貞治年中(1362
~1368年)に、香川氏、安冨氏、奈良氏、山田氏らを、三河から讃岐に呼び寄せた。」と言う文章でした。この頃の守護職とは、
名目的な守護で、年貢(税)は貰うものの、本人は在京し、領国支配は在地家臣に任せるのが一般的でした。ところが頼之は、遠い
三河から、家臣を讃岐支配のために呼び寄せている訳ですね。私はこれ、領国(本領)の移転じゃあないのかな?と考えています。
つまり頼之は、讃岐守護になってから、15年以上をかけて、直接領国経営を行って来た訳です。ですから1379年時点では、讃岐国
こそが、頼之にとって本領だったのでした。そのことを誰もが知っているので、頼之は讃岐公と呼ばれたのですよ。そこで改めて、
左掲示写真の書状を見てみますと、この書状とは、以前に東寺の雑掌頼憲が、奈良五郎左衛門入道の理不尽を、摂津守護細川頼元
に訴えた内容と同じ内容を、頼憲より上位者である公文本空が、頼元の上司である兄頼之(讃岐公)に訴えた文書であったのです。
まあ東寺側の、領地を奪われる、危機意識の表れだろう、と言えましょう。まあ東寺が保管していた文書の多くは、当時の東寺に
とって、自分たちにとっての既得権益を守るための、都合の良い文書ばかり、なんですけどねえ、、。
さて讃州細川記の本文に戻りますと、宇多津に到着した細川頼之一行は、奈良氏の山城(奈良五郎左衛門入道の聖通寺城)に一泊
したそうです。奈良五郎左衛門入道=奈良太郎は、宇多津の代官ですから当然と言えば当然なのですが、落ち延び先として頼之が
奈良氏を頼る、ということは、頼之にとって奈良氏は、やはり信頼する特別な存在であったことが、はっきりと判るのです。
だって、幕府内の反頼之派にとって頼之は、幕府や将軍に逆らう謀反人ですからね。落ち延び先で、寝首を搔かれる危険性もあった
ハズだからです。その後の讃岐奈良氏が、宇多津や那珂に、領地を持っていたことは、他の多くの史料からも明らかです。その最初
が、この頼之時代だったのでした。私は、この当時の讃岐国の守護代は、もしかすると奈良氏だったのではないか?、と考えます。
何故なら頼之の時代に、讃岐国の守護所は宇多津に置かれていたそうだからです。更には、細川頼之の居館も置かれていました。
(※宇多津町史より、)
ですからこの時点での讃岐国守護代は、香川氏ではなく、奈良氏であった可能性が高いのです。だって、これよりちょいと以前の
1376年の奈良氏は、摂津守護代も務めていましたからね。(※東寺百合文書Webより)いずれにせよ、讃岐奈良氏の全盛時代とは、
奈良元安の時代ではなく、むしろこの頼之・頼元兄弟の時代だったのではないか?と、私には思われるのですがね。(次回へ)



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