いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。
国民一人当たりのGDPで日本は、32位だそうでして、G7各国の中
では最低ランクだそうですね。世界の中で、稼ぐ力が下落している
のです。問題は、円安や少子高齢化だけじゃないみたいですよ。
さて前回は、永和二年(1376年)3月17日に、摂津国守護細川
頼元から、東寺領摂津垂水荘の下司職を拝命した、奈良五郎左衛門入道が、僅か半年後の9月には、既得権者である東寺側と争う状況
を、百合文書で見て参りました。頼元に訴えたのは垂水荘の雑掌
(荘官)の頼憲でした。でもこの頃には、五郎左衛門入道の方は、
摂津国の守護代にもなっていたようですね。(東寺百合文書の注釈より)上司は、細川頼元ですね。そこで俊阿=奈良五郎左衛門入道
は、すかさず垂水荘の下司職(代官)には、部下である飯高弾正忠
を任命したのでした。まあ東寺側との、荘園支配権をめぐる攻防戦
ですね。また、自分の名は、出家後の法名である俊阿を名乗って
いた、という奈良氏の状況が、良く判るのでした。
で、今回の掲示文書は、前回と同時期、 永和二年(1376年)9月18日の書状(み函/44/)です。東寺百合文書Webの注釈に
よりますと、差出人は、公文本空という人物です。公文とは役職名で、垂水荘の公文書の管理者と思われます。本空は僧侶名
なのですが、この人物について、東寺百合文書Webが注釈を付けています。本空とは、橘能継のことである、としています。
橘能継については、東寺百合文書以外には良く判らない人物なのですが、橘氏ですので多分公家の出身なのだろうと思われます。
つまり、それなりに身分の高い人物だったのだろうということです。で、宛先が讃岐公となっています。端裏書が、公文注進と
なっていますので、目上の人物への報告書であったことが判ります。そして本文中には、奈良殿(殿!)よりとか、飯高弾正の
名前や下司職の文字が、黒くはっきりと見えています。従って、垂水荘の下司職をめぐる、前回の文書の関連文書であることが
判ります。日付も9月18日ですから、前回9月11日の、摂津国守護代奈良俊阿から飯高弾正忠宛てに出された下司職任命書状の、
ちょうど1週間後の書状な訳です。また前回は、東寺の雑掌(荘官)である僧頼憲の申し状(訴え状)も掲示させて頂きました。
奈良入道(呼び捨て!)が、理不尽だ、とする訴え内容でした。こちらの文書の宛名は不明ながら、9月26日に摂津国守護である
細川頼元(右馬助)に伝えられていることが、百合文書Webの注釈、端裏書から判明しています。さてこれらの状況を勘案する
と、今回の文書にある宛名、讃岐公とはいったい誰のことなのか?が、この文書を理解する上で、重要になって来るのです。
果たして讃岐公とは誰なのでしょうか? 東寺百合文書Webの注釈では、答えを明示しておりませんが、私は、摂津国守護細川
頼元の兄、室町幕府二代管領の細川頼之のことであろうと考えます。つまり東寺側は、摂津守護の頼元だけではなく、幕府管領
である頼之にまで、奈良五郎左衛門入道(俊阿)についての訴え状を出していたのだと、解釈出来るのです。(五郎左衛門入道
は、この時点では摂津国守護代になっていますので、公文本空は一応、「奈良殿」と敬称は使っていますけどね。)
東寺領垂水荘を奪い取られかねない、東寺側の必死さが伝わって来ます。でも結局、東寺領摂津垂水荘はその後、奈良氏の領地
ではなくなってしまったように見えますけどね。何故なら、その後の東寺百合文書から、奈良氏を直接攻撃する文書は無くなって
行くからなんです。更に1400年代に入ると、摂津垂水荘の下司職(代官)は、榎木氏に変わっています。摂津国守護代奈良氏の
影響力は、垂水荘から消え去ってしまったのでしょうかね? 私には、そうは思えませんけどねえ。その件は後日に、、、。
さて掲示文書に戻り、でもどうして讃岐公が、細川頼之であると、判断出来るのでしょうか? 判断の根拠は、何かあるので
しょうか? この事は、この文書の日付、永和二年(1376年)から僅か3年後の、1379年に勃発した、「康暦の政変」の展開を
理解することによって判明するのですが、「康暦の政変」とは、幼少の新将軍足利義満を10年間に渡り、幕府管領として支えて
来た細川頼之に対し、他の幕府守護大名達の、頼之への反感が高まり、頼之排斥のため、反頼之派の軍勢が将軍義満の御所である
花の御所を取り囲んだ事により、圧力に屈した義満が管領である頼之を解任・追放した、室町幕府内のクーデター事件のことです。
この政変では、連座する形で、弟の細川頼元も摂津守護職を、解任・追放されています。
さてこの政変で、京都を追放された細川氏一族なんですが、一体どこに落ち延びて行ったのでしたっけねえ?、、、(次回へ)

コメントをお書きください