いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。
ようやく関東も梅雨に入ったとのことですが、本日は晴れていますねえ、今日も暑くなりそうです。サウジアラビアなどでは、
灼熱地獄のようで、既に多くの犠牲者が出ているようですが、今後の日本も多分同様でしょうね。特に日本では、暑さに加えて
豪雨・台風も来ますので、より大変な状況になりそうな予感です。まあ、今後の異常気象は、不可避だと言う事ですわね。
さて、南北朝期における奈良氏の痕跡を探す中で、偶然発見された、国宝の東寺百合文書なのですが、前回までご紹介して来た、
永和二年(1376年)3月の摂津国守護細川頼元から、奈良五郎左衛門入道宛ての文書だけではなく、この奈良五郎左衛門入道に
関しても、実はいくつかの文書が保管されて来ています。今回は、それらの文書について、ご紹介させて頂きます。なにぶんにも、
東寺百合文書に登場する奈良氏については、現在までまったく研究がなされていないため、まだ不明な点も多いのですが、少なく
とも代々、細川京兆家の被官であったことは、後の奈良元安・元信の存在・活躍(南海通記・西讃府史)を見ても明らかです。
実は、東寺百合文書の奈良五郎左衛門入道(俊阿)以降、細川京兆家関係の各史料には、奈良又四郎、奈良元俊(信濃入道)、
奈良元安(太郎左衛門)、奈良元信と、代々の奈良氏の名前が登場しているので、奈良氏の存在は、疑いのない史実だと言えます。
私はその始まりが、承久の乱後に、三河国に入植したとされる、細川氏の初代にまで遡ると、確信していますがね。まあたまたま、
鎌倉幕府滅亡時に細川氏が、鎌倉幕府方ではなく、足利尊氏方に味方したことにより、細川氏も栄達し、それに伴って奈良氏も、
ついでに出世しただけに過ぎない?、のですがね。逆に成田氏は、北条氏側に付いたため、一旦は没落してしまっていますけど、、。
とは言え、奈良五郎左衛門入道が、摂津の東寺領垂水荘にも下司職として領地を得たことは、間違いのない史実なのです。
で、それから半年後の文書が、今回の左掲示文書(ア函/85/)なんです。日付は不明ながら、注釈では永和二年の9月だそうです。
左側の文書の内容は、「東寺の雑掌(荘官)である頼憲(僧かな?)が、謹んで言上する。」(右端行)として、「奈良入道による
理不尽な命令に対し、厳密な御沙汰を早急にお願いする、」(2行目)という、摂津国守護細川頼元への訴え状なのです。(但し、
この文書は原本ではなく、東寺側の控え、ですけどね。)東寺百合文書Webの注釈では、差出人も宛名も、空欄のままなのですが、
端裏書に、守護右馬助了とありますので、東寺側から摂津国守護細川頼元宛ての、訴え状の控えであることが判るのです。
東寺側と下司職奈良氏側の、垂水荘の既得権をめぐるバチバチの戦いは、既に始まっていたのでした。この時代は、南朝と北朝の
対立だけでなく、既得権益を巡る、旧勢力(寺社貴族)と、新勢力(武士)との戦いも、各地で勃発していた訳なのです。
この東寺側の動きに対し、奈良五郎左衛門入道側も、早速動きます。それが右側の掲示文書(ア函/84/)です。日付は永和二年
(1376年)の9月11日です。俊阿という人物から、飯高弾正忠という人物に宛てた書状です。弾正忠とは官位です。内容は、俊阿
という人物が飯高弾正忠を、東寺領垂水荘の下司職に任ずる、という書状です。この文書だけが、単独で発見されても、多分何の
ことか、更に誰のことか、皆目判らない文書だろうと思われます。しかし京都府立暦彩館は、この文書についても、様々なガイド
(注釈)を提供してくれています。これについては、東寺百合文書Webをご参照下さい。
まずは文書名です。注釈では、「摂津国守護代奈良俊阿書状案」とあるのです。これにより、この時点(永和二年9月11日時点)で、
奈良俊阿なる人物が、摂津国守護代!であったことが判ります。(多分、他の参考史料からの推察でしょうね。)更に俊阿の姓が
奈良である事も判ります。次に端裏書を見ますと、「奈良入道状」とありますので、俊阿=奈良俊阿=奈良五郎左衛門入道である
ことが、判明するのです。そうなると、この左右の文書が、一気に繋がるのですよ。百合文書の番号も84・85と繋がっています。
つまり、既得権者東寺側の頼憲が、下司職である奈良五郎左衛門入道を、けしからんと、守護の細川頼元に訴える、⇒それに対して、
摂津守護代である奈良俊阿(五郎左衛門入道)は、新たな下司職として部下の飯高弾正忠を任命し、対抗するという、新たな流れ・
構図が見えて来るのです。まさに新旧勢力間のせめぎ合いなのです。このあたりは、是非とも直接、東寺百合文書Webを検索して、
暦彩館の注釈等をご確認頂ければ、と思います。東寺百合文書Webは、古文が読めない我々でも、注釈ガイドの参照確認により、
大まかな内容が把握出来る、古文素人(一般市民)にも開かれた、古文書館なのです。ですから活用しない手は無いのですよ。
さて、突然存在が明らかになった、摂津守護代奈良五郎左衛門入道=奈良俊阿と、東寺側との対立、その後はいったいどうなった
のでしょうか? その足跡は、他にもあるのでしょうかね?、(次回へ。)



コメントをお書きください