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南北朝期の細川氏と奈良氏の関係とは?Ⅲ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

 本日より6月に入りましたが、やはり異常気象なのでしょうね?

川に水が少ない、海岸に海藻が無い、そこら中で熊が出没する等々、農業・漁業・林業などに大きな影響が出ているからです。自然の側

から言わせると、人間達の自業自得、なのでしょうがねえ、、。 

 

 さて前回までは、鎌倉幕府滅亡後の南北朝期における奈良氏の

行方を、江戸期の「讃州細川記」から見つけ出して来た訳なのです

が、正直申し上げて、「讃州細川記」の記述だけでは、南北朝期の

奈良氏の存在信頼性が、いまひとつ弱い状況だった訳なのです。

何故なら「讃州細川記」自体が、江戸期の作で、信頼性の低い史料だと言われていたからです。(私は、全然そう思いませんがね、)

奈良氏の存在を証明する、吾妻鏡のような同時代史料(一次史料)は、他に存在しないのでしょうかね? でも一次史料など、

もしあれば、とっくに公表されているハズですよね? それが無いので相変わらず奈良氏は、良く判らない謎の氏族?、となって

いた訳ですからね。ですから何とか一次史料を発見したいと、色々捜索をしておりますと、偶然発見したのが今回の掲示写真なの

です。後に管領となる細川頼元から奈良五郎左衛門入道に宛てた文書(東寺百合文書)、だったのでした。凄い文書、何より決定的

な文書が、突然目の前に出現して来てしまいました。もうホント、びっくりだったんです。

 

 実は私、奈良五郎左衛門入道を調べていた訳でも、東寺百合文書を調べていた訳でもなかったのです。存在そのものも知りません

でした。細川頼之と奈良氏との関連を調べる中で、頼之と一緒に政務を分担していた、弟の頼元との関連も調べようと、細川頼元、

奈良で、検索をかけただけだったのです。最初の検索結果ページは、頼元と奈良市の情報ばかりが表示されていたのですが、下位の

ページを辿って行くと突然、「ヰ函/45/摂津国守護細川頼元書下案|文書詳細|東寺百合文書」という、良く判らない検索結果が

出現したのでした。何じゃコレは?、という感じでクリックしてみますと、この掲示写真が出て来た訳です。大変な驚きでした。

まさに私が探し求めていた、細川氏と奈良氏の関係を証明する、第一級の一次史料だったからです。すごいものが出て来た、と思い

ましたよ。まさかこのような貴重な史料が、ネット検索で出て来た!という点が驚きなんです。昔なら、長年の地道な研究によって、

ようやく辿り着けるか?、というような重要史料に、一瞬でアクセスすることが可能になっていたからです。しかも検索関連性も

ぴったりと合っているのです。まさにネット検索エンジン恐るべしです。ある意味ネット検索は、調査研究のやり方を劇的に変えた

と言えるかも知れません。(誰でも研究者に?)更には、この東寺百合文書をWeb公開した、京都府立京都学・暦彩館の決断も、

素晴らしい判断だったと思います。所蔵古文書を、一部の権威的研究者だけの利用から、普通の一般市民に無料開放したからです。

しかも利用に何の制約・規制も無しで、且つ無料で、なんです。つまり「学術業界!」としてはコレ、すごい英断なんですよ。

 ところがです。既成の権威?に染まってしまっている「Wikipedia」などは、このような決定的史料が出て来ても、奈良氏の

存在については、相変わらず懐疑的なのですね。いくら出典を明記しても、信用出来ないとするのです。私の所にはパトロール員

から、疑義のメールまで来ましたからね。自分達の知らない真実に対して、謙虚さが全く無いのです。実に情けない態度なんです。

とは言え、まだ「奈良氏」の項目が、Wikipediaから削除されていない分だけ、まあ良しとしましょうかねえ、、。

 

 さて、その東寺百合文書とはどういう文書なのか、専門家以外にはあまり知られていない文書なので、少し説明させて頂きます。

(私も知らなかったので、)まずは読みなんですが、百合はゆりじゃあありません、ひゃくごうと読むそうです。京都市の東寺に、

代々保管されて来た、大量の中世の古文書類です。空海の教王護国寺ですわね。でどういう文書が多いかと言うと、現代的に言えば、

不動産関係の文書が多いようです。東寺の所領(荘園)関係の記録などです。寺側にとっては大事な権利証文ですから、1000年に

渡って厳重に保管されて来た訳ですね。つまり、これらの文書を時系列に辿って行けば、東寺の各所領の支配者の変遷も判るはず、

と言う事です。また、この文書の貴重性を知った江戸期の加賀藩第5代藩主が、文書保管のために百個(合)の桐箱を贈ったことに

より、百合文書と呼ばれるようになったそうです。ちなみにこの百合文書は、その重要性が認められ、1997年には国宝に指定され、

更に2015年には何と、ユネスコの世界記憶遺産にも登録されています。

 

 しかしこんな重要な文書に、奈良氏の名前が登場しているのにも関わらず、相変わらず奈良氏の存在が疑われているのは、一体

どういう事なのでしょうかね? 奈良氏についての一次史料があるのですから、知らなかったと、素直に認めれば良いと思うのです

がねえ。それが出来ないのは、やはり「業界的権威」に縛られているからでしょうね。単純な言い方をすれば、歴史業界の中で蓄積

されて来た歴史常識の中に、奈良氏なんて言う氏族は存在しないからなのでしょう。ですから「業界的権威」に縛られている方々は、

奈良氏の存在に疑義を唱えるのです。もし歴史学の権威の方が、奈良氏の存在を認めれば、奈良氏の存在などは、すぐに広く承認

されるのでしょうね。高尚な学問?などと言っても、所詮は「業界の権益?」なのですよね、、、。

 さてまずは、じっくりと掲示写真文書をご覧下さい。無論注目して頂きたいのは、書状末尾にある宛名:奈良五郎左衛門入道殿

と、その右隣り年月日の下、差出人名:右馬助なのですがね、また、この文書に登場している奈良氏とは、我々の良く知る、鎌倉

期の奈良氏と、何か関係があるのでしょうかね? そのあたりの詳細については、(次回へ。)

 

※突然ですが次回、6月8日のブログ更新は、都合により1週間延期させて頂きます。悪しからず、ご了承下さいませ。