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南北朝期の細川氏と奈良氏の関係とは?Ⅱ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。 台湾情勢が緊迫していますね。日本も他人ごとではいられません。

中国による、暴力団的恫喝と軍事示威行動は、とてもまともな国とは思えませんね。台湾が冷静に毅然とした対応を取っているの

で、中国の異常さ・執拗さが、逆に際立って見えます。ますます世界は、こんな中国から引いてしまうと思いますがねえ、、。

 

 さて前回は、鎌倉中期以降、歴史史料に名前が見られなくなった奈良氏が、南北朝期に入り、再び名前が登場した、讃州細川記

(香川叢書)について、ご紹介させて頂きました。でも一度だけの登場では、奈良氏が讃岐国(香川県)に本当に存在したのか、

ちょっと怪しい?と思われるかも知れません。そこで今回は、讃州細川記の中に、奈良氏についての別の記述を見つけましたので、

それをご紹介させて頂こうと思います。一つ目の記述は左写真、「頼之岡蟄居之事」です。これは1379年に起きた「康暦の政変」

を描いた記述で、実際には、斯波氏や土岐氏ら反頼家派の蜂起により、将軍足利義満の館が包囲・脅迫されたため、室町幕府の

管領職を解任された細川頼之が、京都を追われて、領国である讃岐(香川県)に逃れるのですが、香川景介は若干ストーリーを

変えて、この政変の顛末を描いています。ですからこの讃州細川記では、細川氏側に立った政変の説明ですので、掲示写真前段の

「頼之諫言之事」では、若い将軍義満を細川頼之が諫めたことが、義満の怒りを買って、管領職を解任されたことになっています。

(本当は、斯波氏や土岐氏、山名氏らの反乱・蜂起のせいだと、書きたかったと思うのですがね、)

 では何故、「頼之諫言之事」で、作者香川景介は、史実とは異なる説明で、頼之の「康暦の政変」を描いたのか?、という疑問

なのです。私は、この讃州細川記が、他の太平記本などと同様に、講談本として書かれたことが理由だろうと考えます。書かれた

のは江戸中期だそうですから、「康暦の政変」の史実については、当然知られていたハズです。しかし庶民の知る「康暦の政変」

の中身とは、せいぜい、幼い将軍義満の父親役として、十年間幕府管領を務めた頼之が、何故か?、将軍義満によって解任・追放

され、その後許されて再び管領に返り咲いた、という奇跡談だけなんです。難しい背景は知らない訳なんです。そこで香川景介は、

講談話しを判り易くするために、頼之解任の理由を「義満への諫言」という形で簡略化した訳なのです。後の義満との和解、復活

を、より劇的感動的にするためです。主演は頼之ですから、将軍義満じゃあないんです。つまり太平記は、頼之が幕府管領に就任

する場面(1366年)で終了しているのですが、その続編が講談調で書かれている訳です。まあこの記述のおかげで、讃州細川記は

怪しい書だと、烙印を押されているようなのですがね。でも太平記だって元々は、講談話しだろう?と、思いますけどねえ。

 

 でそれに続いて「頼之岡蟄居之事」です。岡とは、岡城・岡館と言われる、讃岐国における頼之の居城です。(場所は判明して

いません。) 史実として、斯波氏や土岐氏らによる「康暦の政変」で管領を解任され、京都を追われた細川氏一族は、領国である

讃岐国へ落ち延びて行きました。でもどうして生まれ故郷である、本領三河国に帰らないのか?、と思われるかも知れませんが、

帰路途中には、ライバル土岐氏の本拠地、美濃があるんですね、ですから三河には戻れない訳です。更には、前回の讃州細川記の

「細川諸士之事」でも書かれている通り、細川氏家臣の有力武士達を、三河から讃岐へ呼び寄せている訳なんです。これはつまり、

細川氏の本領を三河から讃岐に移す目的だろう、とも考えられる訳なのです。こうして讃州細川記で細川頼之の一行は、船で讃岐の

歌津浦(香川県宇多津町の港)に到着します。宇多津に讃岐国の守護所があったからですね。で到着したその夜は、家臣奈良氏の

居城(聖通寺城)に泊まったそうです。ようやく奈良氏の名前が出て来ましたね。1362年の白峯合戦(高屋合戦)で、従兄細川清氏

の軍を破り、頼之から宇多津の地を与えられ、聖通寺城を築いたとされる奈良太郎ですね。(何故か、後代の奈良元安と、よく混同

されています。)やはり奈良氏は、細川頼之の重臣であったことが良く判るのです。更にその翌日には、同じく讃岐に流された、

崇徳上皇の御陵(香川県坂出市)をお参りし、駆けつけた岡・二川の武士達に伴われて岡館(城)に入ったそうです。まあ岡館(城)

がどこなのか?は、良く判りませんが、宇多津町や坂出市の近所だったのだろうと、私には思われますがね。ちなみに、二川の武士

とは、三河国渥美郡二川郷出自の武士で、奈良氏らと同様に、細川頼之に従って讃岐国香川郡井原荘龍満(高松市)に渡り、龍満氏

になった氏族です。またこの時、細川頼之一行として、頼之の次の管領になる弟の細川頼元や、細川頼有、細川氏春、細川業氏、

細川義之など、細川氏一族が揃って讃岐に落ち延び、岡館(城)に入ったそうです。そうそうたる顔ぶれですね。そして更にその後、

讃岐国の在地武士達も続々と、岡館に参集したそうですね。もちろん先陣を切ったのは作者である香川景介の先祖、香川兵部景房!

だったそうですけどねえ。でもこの記事を見ても、頼之の家臣達の中で奈良氏は別格(身内?)だったことが判ります。頼之の方が、

自分から訪れているからです。多分奈良氏は、先祖の代からの家臣であり、同じ三河国細川郷の出自だから、なのでしょうね。

 

 さて続いては右側写真「頼之所々奉幣之事」です。頼之は、敵対する伊予の新守護、河野通暁を打倒するために、阿波・讃岐の

武士達を集め、戦勝祈願(デモンストレーション)を行うのですが、集まった武士の中に、無論奈良太郎の名前も登場しています。

(※この時点で、幕府管領を解任された細川頼之らは、新管領斯波義将らの幕府と、敵対する関係になっています。)しかし先陣の

大将は、何故かやはり作者の先祖、香川景房になっているんですね。このように、あまりに身びいきがひどいので、讃州細川記は、

信用されない文書になってしまったのかも知れません。それでも作者香川景介は、名前も良く伝わっていない?、奈良太郎の奈良氏

を、一応尊重はしているのです。少なくとも奈良氏の存在自体を疑うことはしていません。とすれば、香川景介の讃州細川記以外に、

南北朝期の細川氏家臣である、奈良氏の存在を裏付けるような史料は、他に何か、存在しないのでしょうかね?(次回へ。)