いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。
もうすっかり、夏の天候になってしまいました。今はまだ、5月なんです
けどねえ。誰ももう、異常気象だと言わなくなりつつあります。異常気象が、当たり前になったんですね。こうして異常気象も、異常政治も、異常
国際情勢も、当たり前になり、誰も何も言わなくなって行く訳ですね。
さて前回までで、鎌倉期における吾妻鏡での奈良氏や成田氏らの追跡
は、一応終了しました。以降の奈良氏の行方について、暫くは不明が続き
ます。そして里内裏造営の寄進者名簿から83年後の1333年、後醍醐天皇
や足利尊氏の挙兵により、遂に鎌倉幕府は滅亡します。前回から三世代後
ぐらいですかね? 北条氏方に組した成田氏も、この時に衰退したと伝え
られています。が、南北朝期に入っても奈良氏は、実はしっかりと生き
延びていたのだ、というのが、前回テーマ最後の、私の主張でした。
この主張を裏付ける史料が、今回掲示する「讃州細川記」香川景介誌(香川叢書第二)なのです。香川叢書とは、讃岐国(香川県)
に伝わる古い文献・史料を、戦前の香川県が、紀元2600年事業としてまとめ、刊行した叢書で、言わば香川県版の群書類従です。
また讃州細川記とは、讃岐香川氏の末裔である香川景介が江戸期に書いた、讃岐の細川頼之についての伝記です。江戸期の史料には
なるのですが、南北朝期の室町幕府第二代管領、細川頼之の事績について書かれています。この讃州細川記、あまり知られていない
史料なので、よく細川両家記と混同されるのですが、細川両家記は戦国期の細川氏を描いているので、南北朝期の讃岐での細川頼之
の事績について書かれた讃州細川記とは、まったく時代が違う史料なのです。で、この讃州細川記の中に、何と奈良氏についての
記事が出て来るのです。(掲示写真:「細川諸士之事」)この頁に書かれた頼之の事績は、頼之が幕府管領になる以前の事柄です。
時代としては、貞治年中とありますので1360年代になります。鎌倉幕府滅亡から30年後ぐらいですね。将軍は足利尊氏が死んで、
第二代将軍足利義詮が就任したばかりで、幕府管領(執権)は、頼之の従兄、細川清氏の時代でした。でもこの頃の細川氏の本領
は、まだ三河国の細川郷だったと思われるのですが、父親兄弟の代には守護職となって、阿波国(徳島県)や讃岐国(香川県)
にも、領国進出をしていたのでした。(つまり本領の移転なのかな?)
またこの頃の室町幕府と言っても、有力大名間の均衡の上に成り立っていただけですから、まだ非常に脆弱な政権だったのでした。
(※もちろん南北朝期ですので、南朝方もまだ健在なんです。)と言う訳で、讃州細川記とは、讃岐国と細川頼之に特化した形で、
太平記の続編として、書かれたのだろうと推測されます。また、内容が史実と異なる点があるということで、歴史文献的評価は
低いようですが、この点については後述させて頂く予定です。まあ、無視されて来た歴史史料?、とでも言えるかも知れません。
ちなみに、掲示の讃州細川記は、国立国会図書館デジタルコレクションのもので、昭和16年刊行だそうです。
で、本文です。「頼之公は、香川氏、安冨氏、奈良氏、山田氏らを、讃岐国に呼び寄せた、」のだそうです。え?どこから?、
当然三河国からですね。続いて各氏族の紹介に移ります。一番手が香川氏で、長々と略歴?を書いているのは、この著者香川景介
が、香川氏の末裔だからですね。讃岐国多度津に領地を得たそうです。その次に書かれているのが、奈良太郎な訳で、何と奈良氏
なのです。ですから細川氏の重臣であったのだと思われます。しかし略歴等の記述は無く、宇多津郡に領地を得て、聖通寺城を
築いた、とだけ書かれています。あっさり記しているのは、著者香川景介の時代(江戸期)には既に、讃岐奈良氏の記憶がほとんど
残っていなかったからです。名前も良く判らないのでしょう。三河の奈良氏の子供(長男?)を呼び寄せたので、奈良太郎な訳です。
それでも奈良氏が、細川氏の重臣であったことが判るのは、奈良氏に当時の最重要拠点である宇多津の地を与えているからです。
宇多津の地は、貞治元年(1362年)7月に南朝方に寝返った前管領細川清氏と、北朝方細川頼之が戦い、頼之が勝利した白峯合戦の
舞台だからです。太平記にも描かれています。ですから当時の宇多津には、讃岐国の守護所が置かれていたそうです。つまり讃岐国
守護細川頼之にとって奈良氏は、多分最重要家臣であったと言えるのです。そしてその奈良太郎は、宇多津の聖通寺山に、聖通寺城
を築いたのでした。(現在では、城の痕跡は何も残っていないのですが、、)しかし私はこの記述が、讃岐奈良氏の始まりだろうと
思っています。讃岐に残る頼之伝説ですよね。その伝説の中に、作者香川景介の先祖も入っていたので、自分の先祖香川氏を中心
として、伝説を太平記調の文書にまとめようとした訳なのです。無論、香川景介には、奈良氏をでっち上げる必然性もありません。
だからこそ、奈良氏の名前は、どうでも良い、奈良太郎!なのですが、他の場面でも頻繁に奈良太郎は登場するため、細川頼之に
とって奈良氏は、ある意味欠かせない存在だったのでした。(※「頼之岡蟄居之事」、「頼之所々奉幣之事」など。)
さて本文は以下、安冨氏、香西氏、山田氏等の家臣説明が続いています。香西氏や山田氏は、讃岐の在地武士だったようですが、
細川頼之によって、この頃家臣に取り立てられたのでしょう。足利尊氏に従ったおかげで、三河の貧乏御家人から大出世を遂げた
細川氏の元には、南朝方に見切りを付けて、続々と家臣達が集まって来ていたようですね。
まあしかし、この記述だけでは讃岐の奈良太郎が本当に実在したのかどうか、まだ良く判りませんよね?、他に奈良氏についての
記述は、何か無いのでしょうかね?(次回へ)

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