· 

(真)頼朝後の成田氏、奈良氏らの行方は?Ⅹ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

前回のブログ更新が、GWの事情により遅れてしまった関係で、今回のブログ

更新は、若干早い印象になったかも知れませんね、誠に申し訳ございません。

 

 さて承久の乱から30年後の建長二年(1250年)3月の、里内裏「閑院殿」の

再建工事寄進者名簿に、成田氏や玉井氏、別府氏、安保氏など、懐かしい名前が

久しぶりに登場した訳なのですが、何故か肝心の 奈良氏の名前だけが、無かった

のでした。この謎を読み解くのが、今回これが、最後のテーマになります。

奈良氏はこの30年の間に、滅亡してしまったのでしょうかね?(まあ奥州鹿角の

奈良氏は、ずっと存続し続けますけどね。)少なくとも、寄進に応じられない程

には衰退していたと思われます。30年前の承久の乱では、奈良五郎や奈良兵衛尉(奈良彌五郎)が武勲を挙げ、更には奈良左近将監(先代奈良五郎)も、渡河中の負傷で顕彰されているんですけどねえ、、。恩賞だってあったハズですよね?

 

 それでも30年の歳月の経過は大きかったようで、やはり没落したのですよ。少なくとも、寄進が出来ない程には衰退していた

のは、間違いのない事のように思えます。武蔵国の御家人奈良氏は、遂に滅亡してしまったのか?と、若干不安になりますよね。

でも安心して下さい、東国出自の御家人奈良氏は、南北朝~室町期にかけてしっかり生き残っていたことが、史料で証明されて

いるからです。室町幕府管領細川氏の内衆として、奈良氏の記録が残っているからです。では衰退したとは言え、寄進者名簿に

奈良氏の名前が無いのはどうしてなのでしょうか? この謎を解くカギとなるのが、今回の掲示写真になります。この頁も、寄進者

名簿の一部なのですが、ほとんど最後の方です。(つまりどうでも良い下級の寄進者?)右頁の右端をご覧下さい。細川宮内丞との

名前が見えます。彼は誰なのか?、なんです。一応官位がありますから上洛経験はあるようです。でも下っ端です。また僅か1本の

寄進ですから最低限の寄付ですわね。更に名前の下に「跡」が付いていないので、この時点(1250年)では、まだ生存している

ようです。さて彼は一体誰なのでしょうか? まあ承久の乱宇治川合戦での戦功者名簿でも、もう一度見直してみましょうかね?

 

 私は、彼こそが細川氏の初代、細川義季か、二代細川俊氏(矢田八郎)であると考えます。いずれにせよ本名は、矢田八郎です。

細川氏初代細川義季が、足利氏初代足利義康のひ孫?であるとする説は、後代の細川氏による仮冒(虚飾)であろうと思われます。

また初代義季が実在したのかどうかも不明です。第二代とされる細川俊氏が、実は初代なのかも知れません。何故なら俊氏は八郎と

呼ばれていたらしいからです。矢田八郎に通じますよね。更に細川俊氏以降の初期細川氏の子孫は、多くが次郎ではなく八郎の名を

継いでいるのです。ですから私は、俊氏が初代だと考えます。吾妻鏡に記載のある実際の矢田八郎は、承久の乱宇治川合戦での負傷

者軍功により、幕府有力御家人足利義氏の三河国守護職就任に伴って、三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市細川町)に、新補地頭と

して領地を得て、初めて細川を名乗りました。ですから細川氏とは、承久の乱以降の氏族名なのです。しかも矢田八郎は、下級御家人(矢田氏)の八男であったため、赴任時は、家臣も領地も無かったのだろうと考えられます。そこで同じく承久の乱で軍功のあった

奈良氏も一緒に三河に入植したのだろうと考えられるのです。同様の事例として、頼朝時代の奥州鹿角郡への成田氏、奈良氏、安保氏、

秋元氏の入植事例(鹿角四頭)もありますからね。ところがその後、武蔵国奈良郷の奈良氏本家が衰退してしまいます。(奈良五郎の

嫡流が途絶えたとか?)奈良氏の本家が衰退したので、三河国に入植した奈良氏庶流は、その庇護が無くなり、細川氏の家臣になる

しか、道が無くなったのでした。まあ奈良氏自体も弱小御家人でしたからね。ところがこの弱小細川氏の方は、鎌倉幕府滅亡を経て、

細川義季?の子孫達が、大出世を遂げることになります。三代後の、細川和氏・頼春の時代ですね。足利尊氏の家臣として奮闘し、

室町幕府の管領家(執権)にまで昇りつめているから、なのです。弱小細川氏に付き従った奈良氏の庶流も、細川頼之の時代には、

細川管領家の家宰の役割を務めるなどし、更に細川勝元の時代には奈良元安が、細川家四天王と呼ばれるまでの活躍を見せています。

つまり奈良氏は、鎌倉期に衰退してしまった訳ではなく、南北朝・室町期へ、しっかりバトンを繋いだのだ、ということが言えるの

です。本家が没落しても、分家の奥州鹿角の奈良氏(大湯氏)、三河国細川氏家臣の奈良氏は、逞しく生き残って行ったのでした。

 

 武蔵国幡羅郡奈良郷出自の奈良氏本家が、鎌倉期には既に衰退していたであろうことは、江戸期の新編武蔵風土記稿の奈良村と、

周辺村の記述を見比べれば、良く判ります。奈良村の隣りの別府村や玉井村には、別府氏や玉井氏の痕跡・遺物が残されているの

ですが、奈良村には奈良氏の痕跡がほとんど何も残っていないのですね。仕方がないので、成田氏系図を信じる風土記稿の編者は、

江戸期の享保年間に建立された妙音寺の奈良三郎の墓を敢えて取り上げることによって、成田氏系図にある成田四家の奈良氏を説明

しているのでした。早くに衰退していたので、奈良村の村民の記憶からも奈良氏の存在は、消え去ってしまっていたようです。

もし吾妻鏡の記述が無ければ、奈良氏という氏族の存在は、謎の氏族のままで終わっていたかも知れません。

またそれでは、没落した本家奈良氏の一族達は、一体どこへ行ってしまったのか?、と思われる方も多いでしょう。しかしこちらも

安心して下さい。武士団奈良氏は没落しても、現在に至るまで、熊谷市や行田市、加須市、深谷市などの近郊村で、奈良姓の人々は、代々農民として、ずっと生き延びて来ているのです。このことは、現在の名字人口分布を見ても明らかなことです。

もしかしたら、負担ばかりが多かった武士を辞めて、元々の農民に戻っただけ、だったのかも知れませんね。

実はこの点で、奈良氏と同じように、源平合戦後の頼朝時代に、自分達の土地から消滅してしまった、箱田氏との違いがあるのです。

箱田氏は頼朝の命により、一族揃って、熊谷市箱田の地から、長門国厚狭郡(山口県山陽小野田市)に移住している訳なのですが、

応永十年(1403年)に、大内盛見によって箱田氏は滅ぼされてしまいます。箱田氏は許されず、子孫は、隣国の安芸、筑前に落ち

延びて行きました。ですから現在でも、箱田姓は、山口県内にはほとんど無く、県外の広島県福山市や福岡県福岡市に多いのです。

この点で、地元から逃れざるを得なかった箱田氏と、地元に残ることが出来た奈良氏は、事情が異なっているのですね。

とは言え、氏族である奈良氏の子孫は、奥州鹿角や三河、更には讃岐、摂津の地で、何とかしぶとく生き残って行ったのでした。

(このタイトル項、了。)