いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。ブログの更新が遅れてしまい、誠に申し訳ございませんでした。
ゴールデンウィークで、娘夫婦が拙宅に帰省していたため、各種行事のため、PC作業が出来なかったのでした。本日6日、夫婦は
帰りましたので、ブログを更新させて頂きます。
さて前回までは、吾妻鏡の承久の乱(宇治川合戦)での戦功者名簿から、成田氏や奈良氏関連の氏族の行方を探っておりました。
承久三年(1221年)時点での戦功者名簿と比較したのが、30年前の文治六年(1190年)11月の頼朝上洛凱旋パレードの参列者の
名簿でした。30年後と言うことは、約一世代後ですから、前世代と次世代が同時に存在していた可能性もありますので、各氏族の
変遷を調べるには、うってつけの間隔だったと言えるのです。その承久の乱後の吾妻鏡の記述は、戦後処理中心の記述になります。
後鳥羽上皇や皇族公家らの配流(7月~9月)を以て、吾妻鏡も軍記物語から、徐々に元の、どうでも良い内容の鎌倉幕府業務日誌
に戻って行きます。その後も、戦後処理の記述以外は、せいぜい北条義時の後妻、伊賀氏の変があったぐらいで、平和な時代の到来
になります。北条義時、大江広元、尼将軍政子と、物語りの主役達も次々と死んで行きます。三代執権、北条泰時の時代到来です。
が、実はこうなると、我らが成田氏や奈良氏ら、武蔵の下級御家人の吾妻鏡登場の機会は、まったく無くなってしまうのですよ。
何故なら、自分達の所領に閉じ籠ってしまうからです。私はこの頃には既に、御家人達の鎌倉番役の制度が形骸化していたと思われ
ます。鎌倉幕府や京都の警護を順番で分担する制度ですね。どうして判るのか?と言うと、鎌倉での各種行事に参列している御家人
の名前が固定して来ているからなんです。つまり鎌倉在住の有力御家人は、幕府の官僚(大名?)になっていた訳です。頼朝の時代
には、鎌倉での各任務は、将軍の命の元、各御家人が交代分担制でやっていたんですけどねえ。即ち、御家人同士も平等な関係では
無くなったことを意味しています。(以前は一応、建前上は、御家人同士は平等だったのですよ。)
役職の世襲も、この頃には始まっていたと思われます。まあ平和な時代なればこそ、なんですけどね。と言う訳で、我々が追跡して
いた成田氏、奈良氏、別府氏、玉井氏等は、吾妻鏡にまったく登場しない状況になったのです。戦も無いので、鎌倉幕府と、地方の
下級御家人との交流の機会も、全く無くなって行ったのでした。その結果がどうなるのか?、なんです。
こうして承久の乱から30年が経過した、建長2年(1250年)3月1日の記述で、突然、成田氏らの名前が、再び出現したのでした。
その内容とは、前年に火事で焼けた里内裏(天皇の京都市内の別邸)のひとつ、閑院殿の再建工事の分担者(寄進者)のリストなの
です。(掲示写真一部)宮殿の部分ごとに、細かく分担者が記述されています。紫宸殿は相模守五代執権北条時頼、清涼殿は甲斐
前司長井奏秀などと、大型の建物の担当は、幕府有力者が名前を連ねています。で、その他大勢の下級御家人達の担当が、ぐるっと
敷地を囲む、築地塀部分であったようです。単位は本なんですね?(私、良く判りませんが。)この築地塀寄進者名の中に、我々の
良く知る名前が、久々に登場しているのでした。最初に登場するのは、やはり成田氏です。(左端写真の左頁) しかし問題になる
のは、その書き方なんです。「二本 成田入道跡」とあります。成田入道とは、30年前の承久の乱、宇治川合戦で登場した、
成田五郎か、成田藤次であろうと思われます。多分本家、成田五郎の方かな? で問題なのは、その後の「跡」の記述なのです。
跡とは跡目、つまり後継者のことです。この寄進者リストをよく見ますと、実に多くの名前に「跡」が付いていることが判ります。
皆、承久の乱後の30年の間に、死んでしまったようです。また、この写真左頁の左端には、玉井左衛門跡の名前もあります。彼は
誰か?なんです。官位がありますので上洛経験者ですね。30年前の宇治川合戦の名簿と照らし合わせると、私は宇治川渡河作戦で
傷を負った、玉井小四郎(玉井四郎の子か?)のことだろうと推測します。で、宇治川合戦での戦功者名簿に載りましたので、
親が追放の身とは言え、官位が与えられたのだろう、と考えるのです。しかしこちらも「跡」が付いていますね。従って、玉井氏の
現当主(玉井四郎の孫)、と言う事でしょうね。続いて左から2つ目の写真の左頁の左端には、別府左衛門の名前が見えます。
こちらには「跡」が付いていません。まだ存命なのでしょう。こちらも宇治川合戦の名簿と照らし合わせてみると、別府次郎太郎の
名前があります。30年前の時点では、まだ官位はありませんので、若かったことが判ります。その後官位を得て、別府左衛門と
なったのでしょうね。 さて、今回の寄進者名簿に、「跡」の表記が多い点を、どのように理解すべきなのでしょうか? 私は、
幕府が、御家人達の氏族名は把握していても、現在の当主の名前は知らない、と言う事を表しているように思います。ですから
多くが、記録に残る昔の名前+「跡」なのですよ。最初にも述べたように、幕府と御家人達との交流が、無くなったからなのです。
後半の掲示写真でも、忍入道跡とか、秋元左衛門入道、安保刑部丞跡など、知った顔ぶれが続いています。しかし「跡」が付いて
いる以上、幕府側は実は、現在の当主の名前を知らないのですよ、、。(幕府への申告義務も無かったか?)
しかしその意味では、成田氏も玉井氏も別府氏も忍氏も安保氏も、30年後もしっかりと、その存在が確認された訳なのですが、
この寄進者名簿に、何故か出て来ない氏族名がひとつあります。それは奈良氏なのです。30年の間に、奈良氏は滅亡してしまった
のでしょうかね? 若干不安がよぎりますがねえ、、、。(次回へ)





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