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(真)頼朝後の成田氏、奈良氏らの行方は?Ⅷ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。 いよいよ今年のゴールデンウィークの前半が始まりました。

最初の三連休ですね。4月から働き方改革が施行されて、皆さん休みが取れるようになったのでしょうかね? でもやっぱり、

休めない人は大量に、存在するはずですよ。ただでさえ人手不足の中、GW期間だけ、社会のエッセンシャルワークを止めること

なんて出来ないからです。逆に多くの人が休日を取るため、より多くの臨時非正規労働者が、陰で働いているハズだと思います。

電気ガス水道、鉄道バストラック、商業娯楽施設、清掃警備等々、GW期間は、多くの労働者によって支えられているのですよ。

 

 さて承久の乱での吾妻鏡の軍功者名簿から成田氏や奈良氏関連の名前を拾い上げ、頼朝以降の行方を調べております。前回は、

宇治川の合戦で負傷した者達のリストから、後に子孫が成田氏を吸収することになる安保氏の生き残り、阿保右馬允について

書かせて頂きました。(左写真、右頁2行目) それに続いて、14日の渡河作戦時に負傷した者のリストで、左頁6行目に

奈良左近将監の名前を発見しました。しかしここで、え?となった訳です。何故なら、左近将監という官位が付いているのは、

年長者で上洛の経験者である可能性が高いからです。(上洛土産として、官位が与えられたから。)ところが前回1990年11月の、

頼朝上洛凱旋パレードの参列者である奈良五郎と奈良彌五郎の名は、前回の戦功者名簿の中で既に特定してしまっているので、

奈良左近将監って誰?、となってしまったのでした。さてこれをどう読み解くのか?、なんです。ここで考えるべきは、敵を討ち

取った者の名簿の中で、始めに登場した、奈良五郎についてなんです。確かに頼朝上洛凱旋パレード参列の奈良五郎と、同名では

あるのですが、同一人物なのだろうか?、という点なのです。

尼将軍政子から要請を受けたとは言え、安保實光と同様、奈良五郎も年寄りですわね。簡単に敵を討ち取れるとは思えません。

それが今回の戦功者名簿では、かなり早い順番で奈良五郎の名前が出ています。記録者の印象に残る戦いぶりだったのでしょうね。

そうなると、この奈良五郎とは、本当に老人の奈良五郎なのか?、という疑問が湧いて来る訳です。そして傷を負った者の名簿で

奈良左近将監の名前が出て来ます。こちらの方が、老人の奈良五郎かも知れません。しかしもう一人の奈良氏、奈良彌五郎の方かも

知れませんよね? そこで今度は、左近将監と兵衛尉の官位を比べます。すると、左近将監の方が兵衛尉よりも位階が高いことが

判ります。頼朝上洛パレードでは奈良五郎⇒奈良彌五郎の序列でしたから、奈良五郎が左近将監で、奈良彌五郎が兵衛尉であろうと

推定出来る訳です。(まあ上洛土産の官位、ではあるんですけどねえ、、、)とすると、今回登場の奈良五郎とは誰?、となるの

ですが、これはもう、奈良左近将監の嫡男(あるいは五男?)なのだろう、と考えられる訳なのです。

 と言うことで、成田氏だけではなく、奈良氏の方も立派に働いていた訳なのです。更に続いて、14日に傷を負った者達のリスト

の中で探してみると(左写真)左頁の最後から2行目下段に、玉井小四郎の名前が発見出来ます。さて彼は、誰なのでしょうか?

普通に考えますと、玉井四郎(今回は追放された伊予の玉井四郎か?)の子供か?と思われる訳ですが、今回は少し事情が違い

ます。 次の右写真は、14日の宇治橋渡河合戦で死亡した者達のリストになるのですが、その中に成田兵衛尉、同五郎太郎、に

続き、玉井兵衛太郎の名前もあるのですよ。(右写真、左頁4行目~)この玉井兵衛とは、1190年11月の頼朝上洛凱旋パレード

の際に玉井四郎と一緒に参列した、玉井四郎の子、玉井太郎のことであろうと考えられるのです。ですから上洛経験があるので、

兵衛という官位が付いている訳です。とすると、傷を負った玉井小四郎とは、死亡した玉井兵衛太郎=玉井太郎の子供であろう

と、考えられるのです。つまり玉井四郎の孫ですね。このように考えると、年齢的にもつじつまが合うように思われます。

尼将軍政子の要請とは言え、武蔵国の武士達は、安保氏に限らず玉井氏らも含め、多くが親子孫の三代で、一族の総力を挙げて、

承久の乱に参戦していたことが判るのです。だから、参戦した老兵の多くは、傷を負ったり、死亡したりしているのですね。

さてそれでは、14日の宇治橋渡河合戦で死亡した者達のリストを、もう少し見て行きましょう。まず最初に目につくのは、右頁

最後から2行目に書かれている、安保刑部丞(實光)以下の安保氏一族の面々です。何と一度に4人も死亡しているのですね。

官位の付いている年寄りが2人で、その子供が2人です。やはり負傷者リストにある阿保右馬允以外の安保氏は、この時皆死んだ

可能性があります。尼将軍政子の期待が、大き過ぎたのでしょうかね? まあ恩賞は貰えますけどねえ、、。

彼らに続き、死亡者リスト左頁4行目には、先程も申し上げた、成田兵衛尉、同五郎太郎の名前があります。彼らは一体誰なので

しょうか?パターンに当てはめると、成田兵衛尉は官位が付いているので、頼朝上洛凱旋パレードに参列した成田七郎助綱か?、

と思われます。こちらも既に老兵ですね。そして成田五郎太郎とは、今回戦功を挙げた成田七郎助綱の五男、成田五郎の長男だと

思われます。つまり成田七郎助綱の孫ですね。やはり成田氏一族も、親子三代で参戦していたのでした。この成田氏で、少し気に

なるのは、吾妻鏡の建保五年(1217年)4月に登場している、鎌倉繁華街で傷害事件を起こした成田次郎は一体どうなったのか?

、という点なんです。北条氏嫡男泰時の内衆をやっていたハズなんですがねえ、名簿に無いので、やはりクビになったのかなあ?

まあ多分、本領である熊谷郷に帰ったのだろう、と思われますがね。

で、今回の宇治川合戦での戦功者名簿を見て思うのは、宇治川渡河時の死亡者が、異常に多いと感じる点です。官軍に討たれた

とは思えないのです。とすると、6月14日の記述にあるように、甲冑を付けたまま渡河しようとしたのでしょうね。老兵が多い

ので、溺れてしまったのですね。そこで助けようとした子供達も、一緒に溺れてしまったというのが、真相のような気がします。

いずれにせよ、この戦功者名簿を見ると、頼朝後も、成田氏、奈良氏、玉井氏や別府氏も、皆しっかり生き延びていたことが、

良く判るのでした。(次回へ)