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(真)頼朝後の成田氏、奈良氏らの行方は?Ⅶ

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 今週17日の夜中に、愛媛県と高知県の西部で、震度6弱の地震が発生しました。幸いにも被害は、それほどでもなかったよう

ですが、この辺りは、大地震の発生は珍しい地域だったようです。南海トラフ地震に限らず、今や全国各地どこでも、巨大地震

が発生する可能性が高い状況です。予想外の地震発生なのですね。そう言えばその昔、地震予知連なる団体が、色々提言して

いたと記憶しているのですが、最近は名前を聞きません。あの団体、現在は一体どうなっているんですかねえ?、、、

 

 前回は、吾妻鏡承久三年(1221年)6月18日の記述から、宇治川合戦で、軍功を挙げた者達の名簿で、奈良五郎、玉井四郎

に続き、成田五郎、成田藤次までを見て参りました。今回はその続き、奈良兵衛尉(一人山法師)、別府次郎太郎(一人)の

記述からです。(左端の写真)まずは、奈良兵衛尉の名前です。以前に登場した奈良五郎とは、同じ奈良氏でありながら、名簿

内では離れた記載になっています。この理由は、最初の98人分の名簿(奈良五郎含む)は、関判官代実忠の記録によるもので、

次の続き84人分は、金持兵衛尉の記録による名簿、その後の伊予の玉井四郎、成田五郎、成田藤次、奈良兵衛尉、別府次郎太郎ら

の名前は、北条泰時と時房の軍が、京都六波羅に入った6月15日以降に京都で記録された名簿だったのでした。それぞれ違う記録

なので、いつもはまとまって、記載されている成田四家?の面々が、ばらばらに記載されていた訳なのですね。

 で、奈良兵衛尉(一人、山法師)です。前回文治六年(1190年)11月の、頼朝上洛凱旋パレードの名簿と見比べてみますと、

奈良氏では、奈良五郎と一緒に、奈良彌五郎が参列しています。私は奈良兵衛尉が、この奈良彌五郎のことであろうと考えます。

何故なら、官職が付いているからです。と言うことは、以前に上洛して、官職を得ていることを表しているのです。まあ名前と

戦功は、ある程度自己申告なのだろうと思われます。奈良五郎は自分の名前を奈良五郎だと申告し、奈良彌五郎は、奈良兵衛尉

であると、官職で申告したのでしょうね。また官職を得ているので、若者ではありません。ですから奈良五郎と同様に、政子の

要請に応えて再び参陣した、奈良彌五郎であろうと判断するのです。山法師一人を討っているようですが、比叡山の僧兵なので

しょう。続いては、別府次郎太郎(一人)の記述です。文治六年の上洛凱旋パレードで別府氏は、別府太郎が参列しています。

この別府太郎とは、一の谷合戦(1184年3月)で義経に従い、平家物語(老馬)にも名前の登場する、別府小太郎清重であると

考えます。多分、一の谷合戦の後、上洛凱旋パレード(1190年11月)までの間に、父親別府義重が死亡したので、小太郎から

太郎になったのでしょう。で平家物語では、1184年3月時点で18歳だったと書かれていますので、承久の乱の1221年時点では、

別府清重は、55歳であったと推定されるのです。で、承久の乱の時点で別府清重が生きていたとすれば、承久の乱で登場した

別府次郎太郎とは、別府清重の弟の長男だと言う事になります。またもし、別府清重が既に死んでいたとすると、別府次郎太郎

とは、別府清重の次男の子供(つまり孫)であろうと推測されるのです。まあどちらも可能性はあると思えます。いずれにせよ、

成田氏だけではなく、奈良氏も別府氏も、31年後になっても、立派に健在であったことが判明したのでした。

 続いては、6月13日と14日の宇治川合戦で、傷を負った者達の記録になります。傷を負っても、恩賞の対象になるのですね。

この中には、安保右馬允の名前が見えます。官位がありますので、上洛凱旋パレードに参列していた、安保六郎か、東大寺での

パレードに参列していた安保五郎であると思われます。いずれも、安保刑部丞次郎實光の兄弟だと思われます。この宇治川合戦で、

安保一族は、壊滅的打撃を受けています。傷を負った者達の記録の次が、6月14日の宇治川渡河作戦で死んだ者の記録になるの

ですが、当主の安保刑部丞實光以下、安保四郎、安保左衛門次郎、安保八郎と、安保右馬允以外は、皆死んでしまったのですよ。

安保氏にとっては一族存亡の危機です。しかし北条政子のご指名もあり、これだけの犠牲=戦功も挙げたので、残された安保氏

(安保右馬允)には、北条氏から大きな恩賞が与えられたようです。鎌倉史研究者の伊藤一美氏によれば、承久の乱後、北条氏

から安保右馬允は、播磨国(兵庫県)守護に任じられているそうなのです。(※東国における一武士団)地頭じゃないのですよ、

守護とはすごいことです。だって、成田氏や奈良氏と同じような、武蔵国の下級御家人だった訳ですからね。この安保右馬允の

子孫が、伊藤氏によると、鎌倉幕府滅亡後に衰退した成田氏を、引き継ぐようになったそうですけどね。

 さて吾妻鏡に戻り、負傷者名簿の続きです。真ん中写真に、奈良左近将監(渡河中に負傷)の名前が見えます。こちらも官職が

付いています。官職が付いていると言うことは、以前に上洛したことがあると考えられます。とすると、1190年の頼朝上洛凱旋

パレード参列の奈良五郎か奈良彌五郎になります。あれあれ?、この二人とも、既に軍功者リスト登場で、特定されていますよね?

これって、いったいどう考えたら良いのでしょうかね? もしかすると私、間違っていたかも知れませんです。(次回へ)