いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。ようやく桜は開花しましたが、天気の悪い日が続いていますね。
マスコミでは、さあ花見だ!と、浮かれた報道をしていますが、そんな状況ではないと思いますよ。台湾東部での大地震しかり、
このところ毎日、全国各地で地震の発生が伝えられているのです。もしかすると列島を襲う巨大地震の前触れかも知れませんよ。
花見をやっている場合じゃないと、鎌倉時代の陰陽師なら、多分そう考えるでしょうがねえ、、。
いよいよ承久三年(1221年)、東国武士団VS朝廷旧勢力の最後の戦い、承久の乱が始まりました。(まあ最初から、勝敗は
決まっていたと思われますがね、だって朝廷の首脳陣達は、都を右往左往した挙句に、早々に京都市内から脱出避難してしまって
いるからです。これじゃあ勝負になりませんよ。)で吾妻鏡では、最大の決戦として、6月13日~14日の宇治川合戦を取り上げて
います。13日は功を焦った三浦泰村と足利義氏の軍が宇治橋で戦端を開いたものの、官軍の反撃に会い、平等院に退避します。
夜になって、その報を聞いた北条泰時の軍が宇治橋に駆けつける、という筋書きですが、鎌倉方も多くの損害を出したようです。
翌朝泰時は、宇治川渡河作戦を決行します。多くの犠牲者を出しながら宇治川を渡り、泰時がようやく渡河すると、形勢が逆転し、
官軍は次々と撃破され、遂に勝敗は決します。スター北条泰時の誕生、と言う書き方ですね。完全に軍記物語ですわ。
翌15日には後鳥羽上皇の勅使が、敗北弁明の院宣を持ち、泰時の陣を訪れています。「自分は悪くない、部下がたくらんだ事だ。」
と言う、情けない院宣内容です。こりゃ、勝てっこない訳です。実はこの時の興味深いエピソードも書かれているのです。何と
泰時は院宣(漢文)が読めないので、漢文の読める部下を探しているのですよ。執権北条氏の嫡男であっても、鎌倉御家人とは、
この程度の識字レベルだったのですね。よく吾妻鏡は、この部分の記述を削除しなかったものです。逆に東国武士としては、字が
読めない事が当たり前だったのでしょうね?、まあ頼朝は貴族ですから、字が読めましたけどね。
まあそれはさておき、6月16日からは、終戦処理の記述が続きます。翌17日からは恩賞のための軍功調べが開始され、翌日には、
宇治川合戦で、官兵を討ち取った者、傷を負った者、討ち死にした者の記録名簿が作成され、泰時に提出され、鎌倉へ送られました。
この長大な軍功記録名簿が、吾妻鏡にちゃんと記載されているのですね。(今回の掲示写真一部です。)さすが幕府業務日誌です。
当時の戦場においても、論功行賞のために、個々の軍功を記録する書記官のような人間が配置されていたことも、良く判ります。
ですからこの名簿を丹念に見て行くと、その後の奈良氏や成田氏、別府氏、玉井氏らの状況が、ある程度推測が出来るのです。
それでは見て行きましょう、まずは一番左の写真からです。(クリックすると拡大出来ます。)最初に、14日の宇治川合戦で、
敵(官軍)を討ち取った人々の名前と戦果です。最初の5人目に、奈良五郎(一人)の名前が見えます。最初の方に書かれています
ので、官軍の有力武将を討ち取ったのかも知れませんね。で、この奈良五郎とは、文治六年(1190年)11月の、頼朝上洛凱旋の
パレードにも名前のあった、奈良五郎であろうと思われます。何と31年ぶりの再登場です。本当かいな?と、思われるかも知れま
せんが、北条政子の武蔵武士再出馬要請(5月19日の軍議記述)を受けて、安保實光ら頼朝時代の御家人も参陣していますから、
奈良五郎も同様なのだろうと思われるのです。奈良氏の末裔?としては嬉しい限りです。でも安保實光の方は、宇治川渡河作戦で、
残念ながら死亡しちゃってますけどね。ちなみに奈良五郎が記載されている最初の98名の名簿は、今回の大将軍北条泰時の近臣
(内衆)である関実忠の記録によるものだそうです。以前の建保五年(1217年)4月5日の騒動の記述に登場していた成田次郎も、
泰時の近臣(内衆)だったハズなんですが、その後はいったいどうなっていたのでしょうかね? はたして成田氏等の名前は、
今後再登場するのでしょうかね?
さて続いては、左から二つ目の掲示写真です。1行目の下部に、安東兵衛尉手伊予玉井四郎(一人)との記述があります。
玉井四郎?、30年以上前の頼朝時代に悪名を轟かせた、あの玉井四郎ですかね? 多くの吾妻鏡の解説書では、あの玉井四郎とは
別人の玉井四郎だろう、としています。しかし私は、その説に賛同出来ませんので、以下に理由を書かせて頂きます。まずはどう
読むのか、なのです。安東兵衛尉(安東忠家)の手下、伊予の住人玉井四郎(一人)と読みました。多分、あの悪名高い玉井四郎
(資重)のことでしょうね。あの後白河上皇から院宣で悪行を訴えられ、更に頼朝からも追放命令を受けながら、何故か文治六年
(1190年)の頼朝上洛凱旋パレードに名前を連ね、吾妻鏡だけではなく平家物語にも登場していた、あの玉井四郎だと思われます。
保元の乱から代々、玉井四郎を名乗る玉井氏とは、武蔵国出自の玉井氏に他なりません。(伊予の玉井氏が、四郎を名乗るかね?)
多分既に老齢で、伊予で御家人ではなくなっていたと思われます。何故ならこの時の上司だった安東兵衛尉(安東忠家)も、同様の
追放処分の身の上だったからです。つまりこの二人、元御家人でいざ鎌倉、勝手に泰時の鎌倉軍に参陣している兵士だったのです。
それが何と、しっかり軍功を挙げている訳です。これには頼朝も、草葉の陰で苦笑していたのではないでしょうかね?
つまり私は、安保實光も奈良五郎も玉井四郎も、老骨にむち打ち、政子の要請に従い、いざ鎌倉で参陣したのだ、と考えるのです。
そしてこの後、掲示写真4行目からは、成田五郎(一人)、成田藤次(一人)、奈良兵衛尉(一人山法師)、別府次郎太郎(一人)
何と、所謂成田四家が、そろい踏みで続々登場です。彼らの名前登場を、さてどう読み解きましょうかね?(次回へ)





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