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(真)頼朝後の成田氏、奈良氏らの行方は?Ⅳ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

紅麴のサプリによる健康被害で、死者まで出ているようですね。問題は、

原因物質が特定されていないことです。大昔から利用されて来た紅麹自体が犯人にされ、市場から排除されようとしています。魔女狩りの大騒ぎ

ではなく、冷静で科学的な原因究明こそが重要だと思いますけどね。

 

 前回は、建保七年(1219年)1月27日に、三代将軍実朝が暗殺された

直後の2月2日の記述について、ご紹介させて頂きました。何せ武蔵国は

熊谷郷の領地の件ですからね。成田四家?と関係が深い土地であります。

暗殺者公暁が支配していた熊谷郷の領地を地頭に返した、という話しで、この地頭とは成田氏(成田七郎助綱の子)のことであろうと、述べさせて

頂きました。熊谷市の熊谷寺や八木橋百貨店のある、仲町や宮町、鎌倉町

あたりであったろうと思われます。(江戸期の中山道熊谷宿ですね。) 

 さて今回は、建保七年からいきなり承久元年に変わって、1219年の後半からです。吾妻鏡の4月~6月が欠落しているのです。

まあこちらの吾妻鏡の欠落は、北条氏によるわざとじゃなくて、経年遺失なんでしょうけどね。 

吾妻鏡は、7月19日から再開しています。まずは第四代将軍に決定した三寅(2歳)が、京から鎌倉に到着した場面からです。

7月25日の記述では、早くも都で、後鳥羽上皇による鎌倉幕府への揺さぶり事件が発生しています。その後の鎌倉では、火事や

大風の災害の記述が続き、翌承久二年(1220年)へと移ります。しかし承久二年も、しょっぱなから、地震や火事、水害や彗星

の記述ばかりが続いています。まあ凶事の予兆、ということなのでしょうね。それ以外は特にありません。

 

 こうして遂に、運命の承久三年(1221年)を迎えます。この時点で鎌倉幕府の首脳陣は、政子、義時、大江広元、三浦義村、

安達景盛らで、高齢者ばかりです。新将軍は、僅か3歳ですし、鎌倉幕府は弱体化している、と考えてもおかしくありません。

もう一方の朝廷方、後鳥羽上皇は、39歳で壮年期です。多分、今なら勝てる!と思ったのでしょうかね? 

承久の乱のプロローグは、4月29日の突然の順徳天皇譲位の連絡が入ったところから始まります。何だろう?と、なりますわね。

5月1日、18日と、雷鳴が轟きひょうが降り、太白星(金星)の凶兆出現場面が続きます。(ここから吾妻鏡は、幕府業務日誌から

軍記物語へと変貌しています。)そして5月19日の記述では遂に、京都守護 伊賀光季が官軍に襲われた、との連絡が入ります。

更には、北条義時追討の院宣が下ったとの報告もなされ、院宣の内容も明らかになります。御家人達が政子の屋敷に続々集結します。

すぐに軍議をするのかと思いきや、最初にしたのは、占いなんですねえ、このあたり、時代を感じます。で、関東は太平だそうです。

そこで集まった御家人達を前に、有名な政子の大演説が始まります。御家人達は感涙にむせびながら、朝廷と戦う決意を誓います。

夕方義時の館で、朝廷に対する軍事作戦会議が開かれます。足柄峠と箱根の関を固めて防御すべきだとの意見に対し、大江広元は、

「東国の御家人が一致団結しても、長期間の防衛が続けば敗北を招く、ここは運を天に任せて直ちに京へ向けて軍を派遣すべし。」

と言ったそうです。素晴らしい勝利への方程式です。ウクライナが現在苦戦しているのも同様ですよ。攻めなければ負けるのです。

以前ロシアでプリゴジンが、モスクワへ進軍しようとしましたが、そのまま進軍していれば、多分モスクワは陥落していただろうと

思いますよ。(まあ余談ですがね。)

と言う訳で、御家人一同は、尼将軍政子に判断を求めます。政子曰く、「上洛しなければ官軍を破るのは難しいだろう、安保實光ら

武蔵国の武士達の到着を待って、速やかに上洛すべきである。」という答えでした。政子の口から安保實光の名前が出て来るとは、

これはすごいと思います。政子が、源平合戦や奥州合戦で多くの戦功を挙げた武蔵国の御家人達の武力を、高く評価していたことが

良く判る発言なのです。(本当は、たまたま武蔵武士だっただけ、だとは思いますがね、でも政子は武蔵武士の力を信じてしまって

いる訳です。)安保實光とは、武蔵国の下級御家人ですが、一の谷合戦や奥州合戦で軍功を挙げ、成田氏や奈良氏と共に、奥州鹿角

にも領地を得ています。また安保實光の嫡流は、この時の宇治川合戦で、本人、嫡男ら親族の多くが戦死してしまいますが、生き残

った安保右馬允(実員)の子孫安保光奏は安保氏を継承し、更にその子孫安保信員は、衰退した成田氏の系統をも引き継いだ、とも

言われています。が、とは言え、吾妻鏡の記述に戻りましょう。

 と言う訳で義時は、関東・奥州の各地に対し、鎌倉幕府軍に加わるよう、各地に飛脚を派遣します。いよいよ朝廷との開戦です。

2日後の5月21日の記述で会議では、本領を離れて官軍との合戦のために上洛する是非について、異論も出て来たようです。そこで

再び大江広元、「時間が過ぎれば異論も出て来る、ただ待っていてはダメで、今夜にも嫡男北条泰時が、ただ一人ででも出陣すれば

東国の御家人達は、こぞって付き従うだろう。」と言われて、翌日、北条泰時は京へ出陣します。従う兵は、僅か18騎だそうです。

が、5月25日には、ほとんどの東国御家人が上洛の途についたそうで、総勢19万騎になったそうです。(ゼロがひとつ多いかな?)

 そして5月26日には早くも、鎌倉軍上洛進軍の報を受け、朝廷が混乱する様が描かれています。鎌倉軍は3方面から進軍している

のですが、吾妻鏡が押し書きしているのは、もっぱら北条泰時が率いる東海道軍ばかりのようです。(第三代執権ですからね。)

ここでどうでも良い話しをひとつ、5月27日の記述で、鎌倉で捕らえた朝廷側の勅使の名前、進士判官代隆邦が出ているのですが、

進士氏は戦国期に、讃岐奈良氏が滅びた戦いに、奈良氏に従う武将として、西讃譜誌に登場していますね。(どうでもいいね。)

 で、こうして5月28日には天竜川も渡り、途中途中で官軍を撃破しながら軍を進めますが、朝廷側は、6月3日になってようやく、

防衛のための官軍が、各地に追加派遣されています。しかし6月5日、6日と、官軍との戦いが書かれていますが、僅か数十騎程度の

小規模な戦いであったようで、当時の戦とは、この程度の戦が普通の規模であったのだと思われます。そして6月8日の記述では、

官軍敗走の報を受け、上皇以下公卿や女房達は、都から避難し、6月12日には、京都の入口を防衛するため追加派兵しています。

(こちらの数もゼロが多いなあ、、)さていよいよ、6月13日~14日に渡る、天下分け目の宇治川合戦(掲示写真)の始まりです。

最初の戦いは、官軍の方が優勢だったようですがね、、。(次回へ。)