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まだまだ寒い冬が続いていますね。桜の開花も、気象庁の予想より遅れそうな
予感です。それでも桜の開花が気になり春の浮かれ気分になるのは、バブル期
以来の空前の株高の影響でしょうかね? でも日本経済の実態とは全く関係の
無い、まさにバブル株高なんですけどねえ、ですからまた再び、弾けますよ。
さて前回は、建保五年(1217年)4月5日付の成田氏再登場の吾妻鏡記述と、
鹿角由来記(南部叢書)の四天侍(鹿角四頭)の記述を比較することによって
、鎌倉期の成田氏、安保氏らの状況を推察してみました。 その後は、成田氏や
奈良氏の名前が登場することはあるのでしょうかね?
吾妻鏡に戻りますと、建保六年(1218年)からなのですが、三代将軍実朝も、
まだ生きていて、特に書くことも無いのですが、前回鹿角四頭(秋田鹿角郡に
鎌倉から派遣された四地頭)について触れたものですから、2月23日と24日の記述については、押さえておいた方が良いと思われ
ます。で内容とは、「都の朝廷より使者が来て、北条泰時の讃岐守推挙を上奏したので、早急に讃岐の地頭職を任命・連絡せよ、
とのことで、翌日24日、新補地頭八人が伊予国に向け出発した。(讃岐じゃないの!?)」です。新補地頭ですから、それまでは
鎌倉幕府の支配権が及んでいなかった訳です。鹿角四頭も同様で、それまで奥州藤原氏の領地であった鹿角郡へ、新補地頭として
派遣された訳です。また前年の4月5日に、成田七郎助綱の次男 成田次郎が、鎌倉小町大路で、鹿角の代官深沼五郎と大喧嘩騒動を
起こした事件も、多分鹿角での税の取り立てをめぐる騒動だったのだろうと、推測される訳なのです。(同じ吾妻鏡でも、他の
写本では削除されているような、どうでも良い?記述が、吉川写本では、多数残っているので助かります。)
そして翌建保七年(1219年)1月27日に三代将軍実朝は、二代将軍頼家の子公暁に暗殺されてしまいます。実朝も25歳になり、
北条氏の言うことを聞かなくなって来たのでしょうかね? まあこの事件の真相については、吾妻鏡ではなく、他史料をご参照
下さい。吾妻鏡の記述では、何のことかさっぱり判りませんからね。で、奈良姓の由来ブログとして、注目して頂きたい記述と
しては、暗殺後すぐ後の2月2日の記述を紹介したいと思います。(掲示写真では、吾妻鏡の吉川本、左頁の最後の部分です。)
この頃の記述は、死んだ実朝の遺産相続の話しばかりなんですがね、、、 で、2月2日の記述とは、「武蔵国熊谷郷の領地は、
頼朝の時代に熊谷直実が、的立て役を拒んだ咎により、鶴岡八幡宮に寄進されていた。その後税の徴収は、八幡宮が直接行い、
地頭が不在の状況だった。で、八幡宮の別当(宮司長)が公暁だったので、権勢を恐れて、支障を訴えることも出来なかった
のだが、今回、宮司の徴税関与を停止し、地頭を介して年貢を納めるようにと、本日北条義時が地頭へ、命令書を発行した。」
のだそうです。原文をご確認下さい。さて、この地頭とは一体誰のことか?、なんです。私は、鎌倉で三代執権北条泰時の家来
(内衆)を務めていた成田次郎の兄、成田太郎(成田七郎助綱の長男)が、熊谷郷の地頭だったのであろう、と思いますよ。
つまり、頼朝によって引き立てられ、熊谷市箱田に領地を得た成田氏は、その後北条氏との結びつきを深め、熊谷郷全体を領地と
するまで発展していたと思われるのです。私は逆にこの頃、奈良氏や別府氏、玉井氏は、成田氏と、縁戚関係になったのではない
のか?、と思われるのです。だって元々、隣り同士の領地だったからです。隣り同士にも拘わらず、その後も滅ぼされていません
からね、間違いなく縁戚関係になっていたハズ、なのです。(最初から成田四家が兄弟だった?、などと考えるよりは、無難な
考えだと思いますがねえ、、。)
さてこの年実朝が死に、頼朝の家系が途絶えたことにより、後鳥羽上皇による鎌倉幕府への揺さぶり工作(3月11日、7月25日)
が、頻発するようになります。都の朝廷側は当然、鎌倉幕府の打倒を考えている訳です。もう一方の鎌倉幕府側も、御家人間の
権力闘争を経て、北条氏が幕府権力を完全掌握した状況です。更には元号の方も、承久元年へと変わっています。
こうして翌、承久二年(1220年)の記述は、火事や水害や彗星やらで、凶兆の記述ばかりが目立ちます。いよいよ朝廷と幕府の、
天下分け目の戦い、承久の乱が、目前に迫って来ているのでした。(次回へ)

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