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気候もようやく暖かくなり、いよいよ春本番か?と思われます。しかし来週には
再び寒くなる、との予想らしいので、うかつに喜べません。本当に予報通りに、
来週3月21日に桜は開花(東京)するのでしょうかねえ?、気象庁大丈夫?
さて前回、建保五年(1217年)4月5日の吾妻鏡に成田氏の名前が、ようやく
再登場しました。まあ鎌倉繁華街での刃傷沙汰という、あまり自慢できない登場
ではあるのですが、成田七郎助綱以降の成田氏の消息が判明しただけでも、満足
です。多分間違いなく、成田七郎助綱の次男である成田次郎は、後に三代執権に
なる北条泰時(当時33歳)の家来(内衆)だった訳なのです。すごいですねえ、
そして成田次郎の喧嘩相手深沼五郎とは、多分、成田氏が奥州鹿角郡(秋田県
鹿角市)に派遣していた、鹿角郡の目代(代官)であろうと思われるのです。そこで今回は、この記述を、秋田県
鹿角郡の由来が書かれている、江戸前期編纂の「鹿角由来記」の記述と照らし合わせて検討してみたいと思います。
で掲示写真左頁は、「鹿角由来記」(南部叢書)の「鹿角郡四天侍之事」ですが、「都よりって?(鎌倉でしょ?)、
最初に安保氏だけが、鹿角郡に下って来たそうです。」頼朝時代の御家人安保氏を見てみますと、奥州征伐にも参戦し、
上洛凱旋パレードにも参加している、安保次郎實光の子孫であろうと思われます。しかし私は、安保氏だけが鹿角郡に
最初に来たというのは、少し違うと思っています。(多分江戸期の認識です。)奥州征伐の恩賞として鎌倉期に鹿角郡に
入植したのは、安保氏、成田氏、奈良氏の三氏族だったと思っています。で南北朝期に、秋元氏が追加入植しました。
鹿角郡が南部氏に統一される戦国末期以前は、安保氏系氏族(大里氏、花輪氏、柴内氏ら)が、鹿角の最大勢力だったので、
多分安保氏が最初に下って来たのだろうという認識だったと思われます。一方成田氏の存在は、鹿角では忘れ去られて
いました。鎌倉幕府滅亡と共に、北条氏を後ろ盾とする、成田氏の影響力は無くなって行ったからです。しかし逆に安保氏の
方は、南北朝期に入っても、中央での影響力を保持していたので、鹿角への影響力も保っていたのでした。
ですから鎌倉幕府滅亡と共に、成田氏全体が衰退し、本拠地でも安保氏に包含され、成田氏=安保氏になってしまったので、
江戸期の鹿角地方の認識として、安保氏が一番最初に来た、記述になったのです。私は南北朝期に鹿角成田氏が衰退してから、
天文年間(1532~1555年)に南部氏が入って来るまでの毛馬内村等の成田氏領は、多分安保氏系が領地していたのだろうと
考えています。また、安保氏と成田氏の間に、鹿角四頭の記述にあるような縁戚関係が、最初からあった訳ではありません。
頼朝時代は、安保氏と成田氏は別々の氏族でした。当時の出陣式や凱旋パレード時の行列の配置記述を見れば、当時の安保氏と
成田氏の関係は別々だと解ります。ただ同僚御家人同士ですから、当然鹿角内では、その後の縁戚関係は深まって行ったものと
思われます。また関東では、鎌倉幕府の滅亡により衰退した安保氏と成田氏ですが、安保氏庶流の安保光奏が、中先代の乱に
おいて、足利尊氏方として軍功(鎌倉奪還)を挙げたことにより、安保氏の旧領と一緒に成田氏の旧領も、恩賞(尊氏袖半下文)
として得ているのです。ですからよく成田氏の系統が安保氏系に変わった、とされているのは、これらが影響した結果だろうと
思われます。つまり、鎌倉幕府滅亡後の成田氏の衰退により、鹿角でも武蔵でも、既存領主自体が衰退し、良く判らない存在
になってしまったからなのです。その結果、衰退してしまった武蔵成田氏や奈良氏は、存在記憶自体も消えてしまった訳ですね。
(でも鹿角郡では、安保氏、奈良氏は、戦国末期まで、しっかりと残りましたけどね。)そして一旦消えた武蔵の成田氏の方も、
戦国期には再び、後北条氏の家臣として、復活・拡大していますよね。(※最初は上杉氏の家臣だったけど、)
さて、鹿角由来記の続きです。「鹿角に下って来た安保氏には、子供が3人いた。長男は大里村を領地として、先祖大里上総
になった。次男は花輪村を領地として、先祖花輪次郎になった。三男は柴内村を領地として、先祖柴内彌次郎になった。その後
秋元氏、成田氏、奈良氏が下って来た。奈良氏は、大湯村を領地とした。鹿角の人々は、安保氏、秋元氏、成田氏、奈良氏を、
四天士と呼んだ。」のだそうです。奈良氏(大湯氏)の記憶はまだ残っているのに、やはり成田氏の印象は薄いように感じます。
この記述に続いて、それぞれの村ごとの領地と42人の領主の説明に移っていますが、成田氏についても記述があります。
それによると、毛馬内村を領地とした毛馬内氏が成田氏の惣領家であるとしていますが、実際には天文年間(1532~1555年)
に領主となった岩手の南部氏系の毛馬内氏が先祖だという、訳の判らない記述になっています。つまり、鎌倉期に入植して来た
成田氏の記憶は、江戸前期には既に途絶えていたらしいことが判るのです。多分推測すれば、鎌倉幕府滅亡後に毛馬内氏=鹿角
の成田氏は衰退し、その後の一時期は安保氏系の大里氏が毛馬内村等も領地するも、天文年間には南部氏系に奪われてしまった、
と言ったところでしょうね。同様に、鹿角四頭のひとつ、秋元氏についても、記憶はほとんど失われていたように見えます。
と言う訳で、鹿角郡では、安保氏系大里氏と奈良氏系大湯氏だけが、戦国末期の九戸政実の乱まで生き残ったので、彼らの記憶が
鹿角由来記の記述に残ったのでした。
で、逆に、建保五年(1217年)4月5日の吾妻鏡の記述が残っていたおかげで、成田七郎助綱の子孫が、奥州鹿角郡を領地として
いたらしいことが、鹿角由来記記述の、状況証拠として理解出来るようになった訳なのです。
こうして吾妻鏡に再登場した成田氏ですが、その後しばらくは、また登場が無くなります。次に登場するのは、承久の乱になる
のですが、、、(次回へ)

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