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3月にも関わらず昨日は雪が降り、3日前には沖縄で竜巻も発生しました。異常気象
は、益々過激化している様相です。更に千葉県沖の群発地震も、大変気がかりです。
鎌倉時代の天変地異は、凶事の予兆だったのですが、現代も同じかも知れませんね。
前回は吾妻鏡で、二代将軍頼家が、本当の将軍になろうとして殺害され、完全な
お飾り将軍実朝が擁立され、北条氏によるクーデターが成立した状況までを、見て
参りました。でも今回は表題に(真)が加わりましたね。今回からは、吾妻鏡での
成田氏や奈良氏の行方について、今度こそ本当に、追跡して行きたいと思います。
今回の時代は、お飾りの三代将軍、実朝の時代です。元久元年(1204年)あたり
からが良いでしょうか? ただこの時点では、伊豆に幽閉された二代将軍頼家は、
まだ生きています。ですから、北条氏による権力簒奪劇の八合目あたりでしょうか。
二代将軍頼家が修善寺で、北条氏の手の者によって暗殺されるのはこの年の7月18日
のことです。ちなみにこの時頼家は21歳、お飾り将軍実朝は、11歳でした。この頼家暗殺によって、北条氏による権力簒奪劇は、
ようやく完成します。そしてその後は、武断政治の原則に基づく、有力御家人同士の戦いが、繰り広げられることになります。
権力を掌握したとは言え、北条氏も建前上は、数ある御家人のひとつに過ぎない訳で、逆に他の御家人達は、鎌倉将軍の元では
皆同格であると思っています。そこで今度は、北条氏と有力御家人が争う形になります。そこで北条氏としては、幼い将軍実朝の
摂政役として、政子を尼将軍として担ぎ上げ、北条氏の権力を守ろうとしたのでした。つまり逆に言うと、お飾り将軍実朝は、
安泰だった訳なのです。翌1205年から、実朝が頼家の子公暁によって暗殺される1219年までの15年間は、御家人間の失脚や
追討・滅亡(和田氏)等は、色々ありましたが、鎌倉将軍家としては意外と平穏だったのでした。吾妻鏡も淡々と流れています。
そんな中、建保五年(1217年)4月5日の記述で、ようやく成田氏の名前が、再び登場しているのですよ。大変長らくお待たせ
しました。ようやくここから、(真)頼朝後の成田氏、奈良氏らの行方、が始まります。と言う訳で、4月5日部分の写本写真を
掲示しようとしたのですが、私が利用している国立公文書館デジタルコレクションの吾妻鏡には、4月5日の記述が無いのですよ。
掲示写真をご確認下さい。4月3日の記述はあるのに、次がいきなり17日になっています。しかし吾妻鏡の解説書や現代語訳では、
4月5日の記述は多数あります。吾妻鏡の写本は、山のようにありますから、写本によって異なるからです。定番とされる吉川本
には、4月5日の記述があります。まあ4月5日の記述は、どうでも良い内容?なので、他の写本の編者は削除したのでしょうね?
しかし我々奈良氏歴史好きにとっては、非常に大事な記述なので、敢えて転記させて頂きましょう。以下原文から、です。
「建保五年四月大五日壬子、陰、入夜、小町大路騒動、是式部大夫家人成田次郎与奥州住人深沼五郎闘諍、互依及刃傷也、」
この現代語訳は、「4月5日、曇り、夜になって、小町大路で騒動が起きた。これは、式部大夫(北条泰時)の家人(家来)で
ある成田次郎と、関係する奥州住人(武士)深沼五郎が喧嘩となり、互いに傷を負ったからである。」となります。
さてこれをどう読み解くのか?、なのです。我々にとって大事な点は、いくつかあります。まずは登場人物、成田次郎とは、
建保五年(1217年)四月時点で、後の第三代執権 北条泰時の家臣(内衆)であった、と言う点です。つまり権力者北条氏から、
成田氏は、優遇されていたことが判るのです。その人物が、何と小町大路(鎌倉期の繁華街)で騒動を起こしたので、吾妻鏡に
記載されることになってしまった訳なのです。まあ我々以外の人々にとっては、どうでも良い話しですわね。しかし吾妻鏡に載る
くらいですから、それなりの大騒動であったことが判ります。更に続いては、成田次郎とは何者か?、という問題になる訳です。
前回、成田氏の名前が吾妻鏡に登場したのは、建久元年(1190年)11月7日の、頼朝上洛凱旋パレードの際で、別府氏、奈良氏、
玉井氏らと共に、成田七郎助綱が、登場している訳です。この時点から27年が経過していますので、成田次郎とは多分、成田
七郎助綱の子供なのであろう、との推測が成り立つ訳です。しかも次郎なので次男ですね。と言うことは、長男成田太郎の方は、
熊谷市の本領(旧箱田氏領)の方に居るのでしょうね。そして次男が鎌倉番役を務めている訳です。
更にこの成田七郎助綱は、前年文治五年(1189年)の奥州合戦にも参加し、頼朝から奥州鹿角郡を、恩賞として得ています。
ですから、奥州住人(武士)深沼五郎とは、成田氏が派遣している、鹿角郡の目代(代官)的な武士であったのではないか?と、
推測が出来るのです。例えば、鹿角郡の年貢が、今年は納められない、という訴え、とかなんとかかな?、、、
しかしこのように、吾妻鏡に載るような刃傷騒ぎを起こしてしまいましたので、成田次郎は、主君である北条泰時より、こっぴどく
叱責を受けたであろうことも、間違いありませんがね、、、 ※まあすべて想像ですがね、でも可能性は高いと思いますよ。
その後の成田次郎がどうなったのかは不明ですが、この一文が削除されなかったおかげで、あまり知られていない、この時点での
成田氏の状況が、ある程度解明出来た訳なのです。(次回へ)

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