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民主主義の危機が叫ばれています。その一方で、力の強い者が正義であるとする
武断主義が勢いを増しています。物事がなかなか決められず、議論だけが空回り
しているからですかね?、民主主義は、ゆとりが無いと成り立ちません。つまり
世界中にゆとりが無くなっているのです。物質的にも精神的にも、です。世界は
再び、鎌倉時代のような、力が正義の世の中に戻って行きそうな予感です。
さて頼朝が死去し、正治二年(1200年)が終わっても、成田氏や奈良氏等は、
まだ登場していません。なので、頼朝後の鎌倉や将軍頼家を、吾妻鏡を通して、
もう少し見て行きたいと思います。(タイトルを変更しましょうかね?)で、
正治三年(1201年)からなのですが、2月からは建仁元年に改元されています。
その2月には京都で、越後の御家人城長茂による反乱が発生しますが、3月4日の
記述では、乱は鎮圧されたようです。吾妻鏡には何も書かれていませんが、この乱も、梶原景時一族追討の影響であったようです。つまりそれだけ景時には、
影響力があったということなのです。そしてその後も、御家人達による反乱の
記述は続きます。頼朝の死去により、鎌倉幕府・将軍の権威が衰えたからに相違ありません。さすが武断政治なのです。で、
この頃から吾妻鏡の記述は、反乱の記述の他は、将軍頼家の女や蹴鞠の記事ばかりが続いています。多分頼家が政治を行って
いないとの悪印象付けのための記述なのでしょう。しかし頼家から政治を取り上げているのは、北条氏を筆頭とする御家人達
なんですけれどねえ、、。
つまり御家人達の総意としては、頼朝のような将軍は不要だが、お飾りの将軍ならば居た方が良いという認識だったのです。
将軍としての目標・目的が持てないため、祭礼・法要に参列か蹴鞠をするぐらいしか、頼家には、することが無いのですね。
そして10月から吾妻鏡は、将軍頼家の事績ではなく、北条義時ら北条氏の活動を中心に記述するようになって行っています。
まあ幕府内権力が、徐々に北条氏側に移ったのでしょうね。このような推移で、建仁元年(1201年)は終わっています。
翌建仁二年(1202年)も前年同様、頼家については祭礼出席と蹴鞠の記述ばかりが続いています。平和なのかな?、と
思われますが、年初の1月28日に大地震の記述があり、年末最後の12月24日の記述にも、地震・雷鳴とありますので、
翌年の不吉な前触れを伝えていたのかも知れません。しかし吾妻鏡には、何も書かれてはいませんがねえ、、。
そして吾妻鏡は、波乱の建仁三年(1203年)を迎えます。それまでは、いつもの蹴鞠の記述ばかりだったのが突然、
3月10日の頼家の体調不良発生です、3月12日の記述では、すぐに平癒していますので、コレ一体何だったのでしょうかね?
その後5月19日の記述で、頼家の叔父(頼朝の弟)であり、政子の妹の夫である阿野全成が、謀反の疑いで、頼家の命により
捕縛され、6月23日には殺害されてしまいます。さあいよいよ、鎌倉内部抗争劇の始まりです。6月30日、7月4日、7月9日
と、3回も続けて鳩の死骸発見(凶事の前触れ?)の記述が続いています。そして遂に、7月20日に頼家は、再び急病に
襲われます。3月10日に続き、2度目の急病で、今度は重いようです。これはやはり、毒を盛られた可能性が高いと思います。
私は頼朝の時と同じだろうと思っています。じゃあ犯人は誰か?、そりゃ北条氏(時政、政子、義時)でしょう。で理由は?、
お飾りのままで居れば良いものを、将軍の権限で阿野全成を殺害したからでしょう。頼家は成長して、外祖父である北条氏
にとって、危険な存在になって来たのですよ。と言う見解が、まあ一般的なところでしょうね。しかし頼家はまだ若いので、
なかなか死にません。1ヶ月が過ぎて、じれた北条氏は、そろそろ死ぬ頃だろうということで、8月27日に相続会議を開催して
います。提案は、西国38ヶ国の地頭職を頼家の弟実朝に、関東の28ヶ国を息子の一幡に譲る、という内容でしたが、この案に
大反発したのが、一幡の外祖父に当たる比企能員でした。鎌倉中は騒然となります。9月1日には、鎌倉の状況を心配して?、
近国の御家人達も鎌倉にぞくぞくと集まって来ます。さて、どちらに付くべきか?、思案のしどころです。そして遂に運命の
9月2日を迎え、頼家の妻であり一幡の母である、比企能員の娘が、北条時政の追討を将軍頼家に直訴します。(本当なのか?)
一方の北条側は、軍勢を整え比企氏を討ち、能員・一幡を殺害し、頼家を監禁し(その後殺害)、三代将軍実朝を擁立します。
北条氏一族によるクーデターの完成でした。しかし無頼漢である東国武士団同士とは言え、どうしてこんな悲惨な結末になって
しまったのでしょうかね? よく言われているのが、頼朝・頼家の外祖父としての北条氏(時政)の立場が、頼家・一幡の代に
なると、比企氏に奪われる事を恐れたための決起だとされています。でもこの権力掌握の構図って、京都の朝廷貴族の権力構造と、
まったく同じですわね?、武力による統治ではなく、婚姻とか乳母とか外祖父とか権謀術数を駆使した、平安貴族的な権力構造の
構築を目指した訳です。つまり鎌倉では天皇が、将軍に変わっただけの構図なんです。で、この権力構造は、実は頼朝が目指した
ものだったと思われます。何故なら頼朝は、京都に戻り、同じような権力構造を構築しようとして、志半ばで挫折(暗殺?)して
いるからです。無頼の東国御家人達をなだめすかすために、将軍の外祖父である北条氏なら仕方がない、朝廷の仕組みと同様だし、
という暗黙の了解が、鎌倉幕府内にも形成されていた訳なのです。つまり頼朝は、ミニ朝廷を鎌倉内に作ろうとしていた訳です。
頼家や比企氏一族も、その頼朝路線に乗っかっていただけなのだろうと、思われます。
ところが北条氏を含む多くの東国御家人は、そのような貴族政治的合意形成は、望んでいなかっただろうと思われるのです。
むしろ、強いものが勝つという武断政治をこそ、求めていたのです。ところが頼朝は、幕政にも貴族政治的な意思決定モデルを、
持ち込もうとします。そして更には、幕府を都に移そうとして暗殺されてしまうのです。その後、頼朝路線を継承しようとした
頼家や梶原氏、比企氏も追討されてしまいます。この一連の流れは、多分同じ要因なのでしょう。多くの鎌倉御家人は、何故か
鎌倉将軍の命令にも拘わらず、頼家や比企氏に味方しませんでした。梶原氏に対しても、逆に一致団結して追討している訳です。
(つまり、どちらが強いか?、で判断しているからです。)ですからこれらの政変を、単なる北条氏による権力収奪劇と見る
見方は間違いだと、私は考えます。御家人達は、複雑怪奇な貴族政治ではなく、単純明快な武断政治を選んだのですよ。
その後の御家人間の殺し合いは、誰が一番強いのか?を求めて、御家人達が離合集散を繰り返し、権力や領地が北条氏に収れん
されて行く過程に過ぎません。ただし、まだ都の朝廷も怖いので、一応傀儡将軍である実朝は、擁立されていますがね、、、
こうして、その後の流れは必然的に、誰が強いか決定戦、承久の乱へと繋がって行くことになります。(次回へ)

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