いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。
本日のニュースによると、ロシアの反体制指導者ナワリヌイ氏がプーチンによって暗殺
されたようですね。ロシアの現状はまさに、鎌倉時代の状況と同じであるようです。
さて前回は、京都に戻り、幕府を鎌倉から京都に移そうとした頼朝は、朝廷と関東の
御家人達によって、暗殺されたのだと、主張させて頂きました。まあ色々、状況証拠も
提示させて頂いたのですが、本当に鎌倉幕府を都に移そうとしていたのかどうか?、に
ついては、証拠も無いため、良く判らないだろうと思われます。そこで私がそのように
考える元になった史料について、ご紹介させて頂きたいと思います。吾妻鏡が3年間も欠落しているのですから、別の同時代史料を頼るしかないのですよ。でその史料とは、
頼朝と同時代の僧慈円によって書かれた、日記的歴史書「愚管抄」の記述なんです。
ちなみに慈円の兄は、関白九条兼実ですからね、記述の信ぴょう性は高い訳なんです。
重要視した記述は、愚管抄第六巻、建久十年(1199年)の部分です。どのように書い
ているのか?現代語訳してみます。「 建久十年の正月に、頼朝は病身らしいと聞いていたが、その後11日に出家して、13日には死亡したと、十五・六日には聞かされた。本当の事なのかと、人々は思った。今年は必ず密かに上洛して、政治を行うのだろうと思っていたのに、
全ては想定外だと、(兄の)九条兼実殿へは申し伝えた。」とのことです。つまり慈円は、頼朝が間違いなく
上洛して、京都で政治を行うつもりだと、聞いて信じていた訳です。それまでに頼朝上洛のための裏工作が、密かに
行われていたのですよ。だから慈円もそのように書いているのです。愚管抄は、ネットでも簡単に読めますので、
皆さんも確認してみて下さい。私はこの文章を読んで、やはり慈円や関白九条兼実は、頼朝が京都に戻って来る
つもりなのだと思っていて、ああやっぱりな、と思いました。つまり、頼朝の接待攻勢や入内工作とは、京都に
戻るための下準備だったのです。それが証拠には、同じ愚管抄の中で、少し前の建久七年(1997年)の記述で、
関白九条兼実と娘の中宮任子が失脚・追放される「建久七年の政変」の描写部分で、頼朝は、長女の大姫だけ
ではなく、次女の乙姫も、入内させようと工作していたことが書かれているのです。でもこの時点では、
大姫はまだ、生きているハズなんですけどねえ、病身なので頼朝は大姫を見限ったのだろうと思われます。結局
頼朝にとって娘の入内は、帝の外戚になるための手段であり、大姫でも乙姫でも、誰でも良かった、ということが
判るのです。つまり頼朝にとって、娘の入内すら目的ではなく手段だったとすれば、真の目的は何だったのか?、
ということなんです。それは当然、平清盛と同じく太政大臣になり、自分の政治を行うことだった、と思われます。
で、その頼朝の魂胆を、慈円や九条兼実が感づいていたということは、当然朝廷の他の公卿達も感づいていた、
つまり朝廷は皆、頼朝の京都帰還を警戒していた、ということなのです。何故か?、頼朝に平清盛を見たからです。
頼朝が手本にしたのは、まさしく平清盛でした。清盛は失敗したが、自分なら上手くやれる、と考えたのでしょう。
そのためには、鎌倉(関東)に居たのではダメなんです。天皇を含む朝廷全体をコントロール出来ないからです。
だから、京都に戻らねばならなかったのです。ですから入内工作も、都に戻るための下準備のひとつだった訳なの
です。と言うことは、他にも下準備工作が色々あったハズなんです。そのことが、欠落している部分の吾妻鏡には、
色々書かれていたのでしょう。私は「建久七年の政変」自体も、頼朝上洛のための下準備工作だったと思っています。
何故、頼朝派だったハズの九条兼実が失脚し、土御門(源)通親が台頭したのか?、裏で頼朝の暗躍があったハズです。
実は同じような出来事が、平清盛の時代にもあったのです。「治承三年の政変」ですね。平清盛が後白河上皇の朝廷
から権力を奪い取った政変ですね。この政変の時、上皇の側にいたのが九条兼実で、平清盛に従ったのが土御門通親
だったのでした。頼朝は清盛と同じことを、「建久七年の政変」で行おうとしたのだろう、と考えられるのです。
但し「治承三年の政変」は、派手に実施されたのですが、「建久七年の政変」の方は、逆に密かに行われています。
つまり、この政変で権力を手にした土御門通親の裏に、頼朝が隠れていたに違いない、と思う訳なのです。そしてこの
政変が成功したら頼朝は、息子頼家を鎌倉に残し、自分は密かに都に入り、土御門通親と組んで、都で政治を行ったハズ
だったのでしょう。ところが道半ばの建久十年(1199年)の1月に、頼朝は突然死亡してしまいます。上洛がなくなり、
しめしめと思った土御門通親も、その3年後には突然死してしまいます。その後の朝廷は、後鳥羽上皇の天下になります。
そして鎌倉に残された北条氏や御家人達は、頼朝の下準備工作の記録を3年分削除し、何事も無かったことにしたのでした。
全ては闇の中になりました。その後北条氏と御家人達は、重臣梶原景時を追放・殺害し、比企氏をだまし討ちで滅亡させ、
最後には頼朝の嫡男であるお飾り将軍、頼家を殺害し、遂に1203年に、クーデターを完成させたのでした。(次回へ)

コメントをお書きください