いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。裏金不正問題も、
能登地震災害も、ウクライナ戦争も、パレスチナ紛争も、劇的に変化することは
無く、相変わらずダラダラと続いていますが、人々の関心からは、徐々に忘れ
去られて行くのでしょう。情けない状況ですが、これが現実なのでしょうね、、
さて前回まで、「頼朝後の成田氏、奈良氏~」というタイトルにも拘わらず、
吾妻鏡の欠史3年と頼朝の死の関係についての記述ばかりが続いておりますね。
タイトルに偽りありとのご指摘、その通りで、誠に申し訳ございませんです。
ただ、頼朝後を見て行く上で頼朝の死は、きちんと把握して置くべきだ、と思う
ものですから、前回弁解の通り、もう少し我慢してお付き合い下さいませ。
前回は、頼朝が幕府を、鎌倉から京都に移そうとしたので、御家人達によって
暗殺されたのだと、書かせて頂きました。どこにもそんな記録はありませんが、
このように考えると、吾妻鏡に頼朝死亡の3年間の記述がないことや、すんなり
何事もなかったかのように、息子の頼家が将軍職を継いでいる事が、腑に落ちる
のですよ。どのような経緯だったのか、まったくの仮説ですが推論してみます。
従来からの説のように頼朝が落馬し、それが元で死亡したとすれば、突発的な
事件ですから、吾妻鏡(北条氏)は、3年間も記録を削除する必要はないと言えます。北条氏や御家人達に咎はないから
です。ところが私の説に立脚すると、3年分記録が削除されていることは、再上洛から鎌倉に戻った翌年から死亡までの間、
娘の入内工作と並行して、頼朝の帰京(幕府移転)のための工作が行われていたハズだ、と考えられるのです。
頼朝の動機としては、自分が平清盛になるためです。それが源氏の新しい世を創るための、最善の方策だと考えたのでしょう。
ここに頼朝の平安武士としての限界性がありました。結局、武士が中心の世を、思い描くことが出来なかったのです。
だから朝廷と武士が一体(せいぜい対等)であることによって、初めて統治が可能になるのだと、信じていたのです。
結局、平治の乱で敗れ、東国に逃れた源氏が、源平合戦で勝利し、最後に都に凱旋することが、頼朝の全てだったのでした。
これを叶えた後は、昔の世に戻るしかありません。つまり失敗した清盛に代わり、自分が清盛になるのです。
多分、朝廷側も御家人達も、この頼朝の考えを受け入れるハズだ、と思ったに違いありません。で、頼朝はこの欠史3年間で、
その帰京(幕府移転)工作に突っ走ったのだろうと、私には思われるのです。
この頼朝の動きに対し、都の公卿達や御家人達は、どのように思っていたのでしょうか? 当然皆反対だったと思うのです。
しかし面と向かっては、絶対誰も何も言えません。けれど鎌倉から距離のある都では、多少の意思表示は可能だったようです。
特に朝廷内で、将軍宣下をするなど頼朝派と見られていた関白九条兼実でも、頼朝の入内工作を知ると、阻止しようとした
ようです。平清盛の亡霊を見たのかも知れません。それが原因かは知れませんが、翌建久七年(1196年)11月には、兼実の
政敵である土御門通親によって、娘の中宮ともども失脚・追放されています。(建久七年の政変)私は、この政変にも頼朝が、
直接ではないものの、間接関与していたように思われるのです。もしかするとこの年の吾妻鏡には、そのような記述があった
かも知れません。「大姫の入内に反対した関白九条兼実は、突如罷免された。」もしこうあったら、当然削除対象ですよね。
一方鎌倉御家人達にとっては、頼朝の入内工作など、どうでも良かったと思います。彼らにとっての大事は、本領安堵です
からね。頼朝が単独で、京都に戻るのであれば、抵抗は少なかったと思います。関東が、朝廷の影響が及ばない独立王国で
あり続ければ、それで良かったのです。しかし頼朝は、幕府を京都に移転しようと思ったハズです。でも鎌倉幕府の京都移転
となれば、話しは全く別です。関東の鎌倉だから番役が務まるのであり、京都から自領に通うことなど出来ないのです。
領地への認識が現在とまるで違うのです。皇族・貴族は領地がどこであれ、年貢さえ入って来れば文句はありません。しかし
東国武士は、自分達の土地に根差しているので、絶えず自領に戻らなければならないのです。自領が全てなのです。
建久六年(1195年)の頼朝再上洛の時に、多くの関東御家人が、お供として4ヶ月間も在京しました。本当は嫌だったと思い
ますよ。みやこ人とは、言葉も風習・文化も全て違う訳です。京都人は裏表がありますから、表面上は歓迎しながら、裏では
吾妻人を野蛮人だと軽蔑する訳です。御家人達も、いくら田舎者とは言え、気付かない訳はないのです。本当は一刻も早く、
故郷関東へ戻りたかったハズなのです。それが頼朝の都合で、4ヶ月近くも京都に滞在した訳です。田起こしや田植え作業も、
既に終わってしまっていますよ。御家人たちは、不安でしょうがなかったと思いますよ。その意味でも東国武士は、兼業武士
なのです。一方頼朝は貴族なので、最後に戻るべき場所は、都であると考えていたハズなのです。日本全国の支配のためには、
朝廷と一体で、京都に存在しなければならないのですよ。関東の鎌倉では全国支配など出来ないのです。私はこうして頼朝は、
空白の3年間に、娘の入内工作だけでなく、鎌倉幕府の京都移転工作も、同時に行っていたハズだ、と考えています。
そしてこれが原因で頼朝は、朝廷、関東御家人の双方から、反旗を翻されてしまったのではないか?、と思われるのです。
建久十年(1199年)1月13日に頼朝は死亡したことになっています。もしかするともう少し前に、死亡していたのかも
知れません。死後の段どりが手際良すぎるからです。いずれにせよ、朝廷も御家人達も、妻の政子までもがグルなのですから、
どうとでも出来る訳なんです。つまり私は、頼朝が暗殺され、歴史が書き換えられたのだ、と確信しています。
何故吾妻鏡は、3年分も削除されたのか? それは3年にも渡る、頼朝の都への帰還工作=頼朝の意思を、北条氏・御家人達が
拒否したからです。削除という、この稚拙野蛮なやり方によって、頼朝の意思は、存在自体が無かったことにされた訳なのです。
とは言え、頼朝の京都移転工作の、証拠のようなものは、実際何か、存在しないのでしょうかね?(次回へ)

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