いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。
このところ、頼朝後の成田氏や奈良氏の行方が、まるで登場しない、ブログ内容が
続いています。誠に申し訳ございません。何せ吾妻鏡には、疑問が多すぎるのです。
多くの疑問をすっ飛ばして、成田氏・奈良氏の記述に行ってしまうのは、あまりに
もったいないので、もう少し頼朝の死の疑問を、続けさせて頂きたいと思います。
前回は、頼朝死亡前後の吾妻鏡の記述から、頼朝死亡の謎を追ってみたのですが、
何せ記述が3年も欠落しているものですから、なかなか難しい攻略でした。ただし、
頼朝が暗殺されたということは間違いないだろうと、私は考えています。
記述を3年も欠落させていること自体が一番の証拠だろうと思いますがね。だって、
再開後の建久十年(1199年)の記述では、敢えて補追までしているんですから、、
で仕方がないので、頼朝が多分暗殺されたのであろうことを前提として、その背景と
なる状況証拠を、吾妻鏡等の記述の中から探って、大胆推理してみたいと思います。
そこで欠落前の建久六年(1195年)の記述を再び振り返ります。カギとなる、3月の頼朝一家の再上洛からです。
東大寺大仏殿の落慶法要出席と大パレードは、頼朝再上洛の目的でしたが、実はもう一つ裏の目的があったのです。
その目的のため、6月25日に鎌倉へ出発するまで、何とほぼ4ヶ月間も在京していた訳なのです。更には、その目的が
あったので、頼朝は単独ではなく、一家(家族全員)で上洛したのでした。その真の目的が判る記述が、掲示写真の
右頁始め、3月29日の記述部分です、ご確認下さい。内容は「将軍家が従二位の尼、丹後の局(宣陽門院の母親で、故
後白河院の妾)を、六波羅の御亭(宿所)に招き、御台所(政子)や姫君(大姫)と面談した。」です。 どういうことか?
つまり頼朝は、朝廷一の実力者丹後の局(高階栄子)に取り入って、長女の大姫を入内させようとした、ということです。
この時贈り物として、銀蒔絵の箱に砂金200両を入れた白綾織り30反を贈り、更に従者たちにも引き出物を贈ったようです。
まあえげつない接待攻勢の様子ですね。(多分、敢えて書いていますね。)目的は、大姫の入内工作です。丹後の局だけ
ではなく、京都滞在中は何度も、朝廷の実力者たちへ入内工作を行っています。(大姫が病死してしまい、うまく行きません
でしたけどね、)しかしこれが頼朝上洛の真の目的だったと思われます。入内工作のことは、関白九条兼実の日記「玉葉」
にも書かれています。でもどうして頼朝は、娘を入内させたかったのでしょうかね? 多分理由は、彼が滅ぼした、平家に
なりたかったからです。平清盛になりたかったのですよ。元々頼朝は、下級とは言え、貴族身分ですからね、東国武士である
御家人達とは身分が違うのです。しかし鎌倉では武士のトップには成れたものの、京では身分社会なので、成り上がり者に
過ぎないのです。ですから、丹後の局や公卿達のご機嫌を取り、途方もない接待を繰り返すことにより、出世のお手本である
平清盛を目指した訳なのです。武家の棟梁(トップ)じゃあダメなんです、何せ自分は貴族なんですからね。
その意味で頼朝は、平安時代の枠組みに拘泥していたのです。娘を入内させて、帝の外祖父となり、太政大臣として天下を
動かすという、まさに平安時代という枠組みの中での栄達を目指した訳だったのです。多分頼朝は、大姫の入内に成功したら、
鎌倉を捨てて、京に戻るつもりだったのだろう、と私は考えます。だって親父の源義朝は、平清盛に攻められ、都落ちして
東国に逃れたのですからね。勝って京に戻るのは、当然なのです。少年時代は京都に住んでいましたし、そして多分、京での
居所は、もちろん平家と同じ六波羅になったハズだと思いますよ。これが頼朝の考えた「武士の世」だったのです。
つまりここに、頼朝の限界性がありました。平安時代の権力枠組み(平清盛)から、抜け出せなかったのですよ。
多分、吾妻鏡の欠史3年の中には、このような頼朝の動きが記録されていたハズだ、と思われます。例えば、翌建久七年
(1196年)には、頼朝と提携関係にあった関白九条兼実が失脚していますし、翌建久八年(1197年)には、入内を画策
していた頼朝の娘、大姫が死亡しています。これらの件に頼朝が関わっていなかったハズはないので、吾妻鏡の方にも当然、
何らかの記録が残っていたハズなのです。で、それらの記録は、後の北条氏らにとっては、多分都合の良くない内容だった
のだろうと思われます。例えば、友好関係にあった関白九条兼実を、失脚に追い込んだのは頼朝だったとか、死亡した大姫の
代わりに、次女の乙姫を、入内させようと工作したり、が多分記述されていたことでしょう。しかしこれらの記述だけでは、
頼朝暗殺の決定的要因にはなりそうにありません。朝廷や都に拘泥していたのは、頼朝本人だけだったのですからね。
そこで私は決定的要因、頼朝が鎌倉を捨てて、京に戻ろうとしたことによって、頼朝は暗殺されたのだ、と思っています。
即ち頼朝は、幕府を鎌倉から京都に移そうとしたのです。頼朝的には、公武合体的な考えだったのでしょう。しかし東国武士
(御家人)達は、関東のことは関東で、という立場で、これに反旗を翻したハズなのです。
ですからこの頼朝暗殺によって、後の承久の乱への下地が出来上がったのだろうと、私は考えるのです。(次回へ)

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