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頼朝後の成田氏、奈良氏らの行方は?

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。正月元旦に

発生した能登半島地震の被害が収まらず、ずっと続いています。阪神淡路や

東日本大震災も経験したハズなんですけどねえ、何故かその経験がまったく

生かされず、過去に見た同じ光景が、再び繰り返されています。日本人は

馬鹿か?と言われないよう、水、電気、トイレ、寒さなど、どれかひとつ

でも、次の震災では不安に思わなくても済む状況になって欲しいものです。

 

 さてこれまで、頼朝時代の吾妻鏡の記述から、保元の乱以降の成田氏や

奈良氏らの動向、更には箱田氏、別府氏らの状況証拠を元に、成田氏系図

伝説の誕生・改ざんについての仮説見解を述べさせて頂きました。

そして今回からは、頼朝以降(北条氏時代)の吾妻鏡から、成田氏や奈良氏の足跡を辿ってみたいと思います。(まあ、二番煎じですかね?)

 がその前に、その後の頼朝や、頼朝の死亡や、二代将軍源頼家の失脚に

おいても、義経の時と同様の様々な作為?が、吾妻鏡中でも、行われている

ようなのですね。まずはその辺りから、追跡して行きたいと思います。

 

 吾妻鏡は、建久六年(1195年)からですね。実はこの翌年から吾妻鏡は、何故か記録の欠落が始まっているのです。

欠落には多分、何らかの理由があるものと推察出来ます。この年に頼朝は、一家全員で都に再上洛しているのですが、記述の

欠落は、実はこのあたりから、既に始まっていたのだと思われます。例えば前回(1190年)の上洛の際の記述では、その準備

段階から事細かく記述されていたのですが、今回は北条政子や子供達を含め、一家揃って上洛する状況だったにも拘わらず、

上洛準備の記述は、出発4日前の2月10日の記述ぐらいなのです。で、2月14日に、一家揃って出発した記述はあるのですが、

何故か淡々とした書きっぷりなんです。更には、以前のような出発後の旅程の記録もありません。そして次はいきなり3月4日の

瀬田橋(京都の玄関口)到着の記述になっているのです。私にはこの時点から、何かを隠しているような気がしてならないの

ですよ。あるいは、書かれていた記述を、後代に誰かが、部分的に削除したのかなあ?、、、

 

 さてこの将軍家(頼朝一家)の再上洛の記述で、ポイントとなるのが、3月10日に奈良東大寺で行われた大仏殿落慶法要での

大行列パレードの記述なんです。前回1190年の上洛パレードの時と同じような記述で、大量の行列者名簿が記載されています。

前回から5年が経ち、参列者名に変化はあるのでしょうか? 前回上洛パレードの人選を差配した梶原景時から変わっているの

ですが、今回はその影響なのか、我らが成田氏系御家人?の参列メンバーが、何故か変わっているのですよ。前回は、成田七郎

(助綱)、別府太郎(清重)、奈良五郎、同彌五郎、玉井太郎、玉井四郎(資重)が参列していました。そう言えば前陣には、

後に成田氏と同族になる阿保氏の阿保六郎もいましたね。ところが今回は、成田氏四家?では、奈良五郎ただ一人の参列記述に

なっているのです。※掲示写真でご確認下さい。(でも阿保氏は、阿保五郎、六郎と2名が参列しているんですけどねえ。)

僅か5年後なんですけどねえ、成田七郎らは、一体どうなってしまったのでしょうかね? 私はこの記録にも、頼朝・幕府側の

強い作為が働いていたのだと思っています。 どういう事か?、つまり私にはこの人選も、義経の痕跡を抹消し続けた作為の

延長だった、と思われるのです。1185年の源平合戦から10年、義経は、あっという間に、全国的な悲劇の英雄になってしまい

ました。即ち平家物語等の流布によって、全国民に知られる存在になっていたのです。頼朝にとっては、許せない状況なんです。

それまで頼朝は、義経の名前を改名したり、箱田氏の名前を改名したり、成田氏系図を改ざんしたり、源範頼を追放(1193年)

したりして、義経の痕跡を懸命に消そうとして来たのです。前回の上洛時は、源平合戦時から日も浅く軍功もあったので、義経の

部下でもパレード参列が許されたのですが、範頼も失脚した今となっては、部下であっても義経・範頼との関係で、参列者名簿

から消されてしまったのでした。琵琶法師による平家物語の流布とは、当時の反体制報道だったのかも知れませんよ。

多分パレードに参列して、観客(都人)の話題や噂にのぼり、更に義経らの評判が高まる事を、頼朝は恐れたのでしょうね。

私は頼朝が、平家物語(報道)を、強く意識していたに違いないと思っています。ですから成田氏系図伝説を創ったのです。

具体的に平家物語では、成田七郎(五郎)は、二度之懸の段で「ひょっこり現れて」壇ノ浦後の箱田氏の旧領を奪っていますし、

別府小太郎や玉井四郎(資景)は、軍功ばかりでなく、老馬の段、落足の段の登場で、一躍有名になっています。ですから頼朝

から排除されたのです。こうして前回パレードから生き残れたのは、無名のままの奈良五郎だけだった、と言う訳だったのです。

このように考えると、1195年のパレード名簿に、成田氏、別府氏、玉井氏の名前が無いことも、すっきり理解が出来るのです。

私は調べていませんが、前回パレードの名簿と、今回の名簿を比較すると、もっと多くの、義経・範頼関連の氏族名が消えている

ことを発見出来ると思いますよ。それらの氏族も、多分同様に、頼朝によって排除されたのでしょうね。(次回へ)