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正月に発生した能登半島の大地震と日航機大炎上の影響により、自民党
裏金疑惑事件の方は、すっかり色あせてしまったようです。岸田総理や
疑惑の議員達は、ほっと胸をなでおろしているのかも知れませんよね?
さて、前回・前々回と、私の提示した箱田氏・別府氏についての見解
(仮説)を明確化するため、改めて論旨を、箇条書きでお示しさせて頂
き、更にまとめを提示させて頂きます。
①成田氏系図にある成田広能とは、山口県惣社八幡宮の由緒書きに
記載されている、箱田小太郎広貞=箱田長門守頼道のことである。
②箱田小太郎広貞は、源義経の家臣として壇ノ浦合戦で軍功を挙げ、
源範頼により長門国厚狭三郡の地頭に推挙され、源頼朝が承認した。
➂箱田小太郎広貞は、頼朝の命により頼道と改名し、箱田氏一族全員で
長門国に移住し、地頭職と総社八幡宮の大宮司職を得た。
④残された熊谷市内の箱田氏の旧領は、頼朝の指示により、成田七郎助綱が継承した。
⑤頼朝による、源義経の痕跡抹消の意向を受け、箱田氏の旧領継承も正当化するため、成田氏の系図・伝承も
新たに作り変えられ、新たに成田四家が創作され、熊谷市内に存在していた、箱田氏の存在痕跡が抹消された。
⑥また同様に源義経の功績を消すため、義経の家臣、別府小太郎清重・義重父子の痕跡も消すため、別府氏の系図・伝承も
成田氏系図として改ざんされ、兄弟相論・領地東西分割の下知などの作為が加えられ、成田氏系図内の別府氏系図からは、
別府清重・義重父子の名前も抹消された。
以上の提示仮説が正しければ、以下の結論が必然的に導き出されます。すなわち、「成田氏系図の伝承は、義経の功績を
消す目的のために、頼朝の意向により創作された。」のです。つまり成田氏系図の伝承は、鎌倉期から、800年以上に渡り、
延々と語り継がれて来ている訳なのです。これには、鎌倉幕府の強い影響があったであろうことは、言うまでもありません。
しかしながら、その鎌倉幕府も、1333年には滅亡しています。それに伴い、成田氏も衰退しました。とすれば、系図伝承も
途絶えてしまっただろうと思われますよね? ところが系図伝承は継続されました。何故なのか?、なんです。南北朝期に
入れば、頼朝の呪縛はもはや無くなるものと考えられるからです。ところが成田氏系図の伝承は、何故か室町後期には、逆に
補強・強化されているからなんです。補強箇所とは、御祖成田五郎家時の伝説部分や、成田氏の菩提寺である龍淵寺の創建など
なんです。どうして成田氏の伝承が逆に強化されたのでしょうか?(※いよいよ、成田氏系図についての、最終結論です。)
その理由とは、後代の安保氏系?成田氏が、この系図伝承を領国支配のために活用したからなのです。特に所謂成田四家の
部分ですね。近隣氏族を成田氏に服属させるために、系図伝承が活用されたのです。当時有力であった別府氏が、特に影響を
受けたのだろうと思われます。「旅宿問答」(続群書類従に収録)を読むと、成田氏系図に対する別府氏側の、屈折した感情が
読み取れます。時代は、成田氏によって忍城が築かれ、成田氏の菩提寺、龍淵寺が創建された頃です。成田氏系図によれば、
成田家時の時代あたりですかね? でも私、それは違うと思います。何故なら成田家時とは、後代の成田氏によって作られた
伝説だからです。実際には、1500年代頃、成田顕泰、親泰父子の時代あたりであろうと考えられます。この頃に、第二次の
成田氏系図の創作が行われているからです。最初の系図創作の目的は、源義経の家臣達の痕跡を消すことが目的でしたが、
2度目の系図創作の目的は、地元豪族から地域大名として隆盛になった成田氏が、出所不明の成り上がり者ではない、とする
ための、つまり領国支配のための権威付けが目的だったのです。まあ成田顕泰は、成田正等(資員?)の養子だった、という
説もありますからねえ。
具体的な創作箇所としては、成田五郎家時伝説の創造です。本来であれば、元々の始祖であるハズの成田助隆を崇めれば良い
ハズなのですが、鎌倉幕府の滅亡で、成田氏の系統が弱体化していたことも、影響していたのかも知れません。そこで敢えて、
自分達に近い新たな始祖として、御祖成田五郎家時の伝説を作り上げたのでした。(※現在でも、熊谷市立成田小学校の校歌
には、その御祖五郎が、登場していますよ。)
忍(行田市)の領主であるにも拘わらず、始祖の地を熊谷市上之に定めたのも、この時です。菩提寺として龍淵寺も、再興と
言いながら創建しました。こうして成田氏系図の伝承を復活させたのが、成田顕泰・親泰父子だったのでしょう。つまり現在、
熊谷市内に流布されている成田氏系図の伝承は、この時点に完成し、流布されたのです。
そして領国内に、この伝承は、強力に伝播されました。成田氏統治の正当性をアピールし、別府氏や奈良氏、玉井氏ら近隣氏族を
服属させるためです。この当時の成田氏の領地とは、現在の熊谷市、行田市、羽生市、深谷市、加須市、騎西町に渡る、北武蔵の
かなり広大な領域でした。また当時の成田氏の主家は、関東管領上杉氏です。上杉氏には、平安・鎌倉・室町と続く、支配者階級
としての確固たる家柄があります。その上杉氏の有力家臣である成田氏にとっても、名家としての家柄が必要だったのでしょう。
ですから鎌倉期の成田氏系図を流用し、更に加筆することによって、成田氏系図の伝説を完成させたのでした。
江戸後期の尾張藩士成田長任や、江戸末期の上之村の名主、小沼十五郎は、それらの伝承を、成田氏系図や成田記として、単に
文書・書籍化した人物に過ぎないのです。元々伝承なのですから、間違いや誇張・虚飾が多いことは、言うまでもありません。
しかし一旦文書化されてしまうと、その記述の正誤部分ばかりが注目され、その間違いや作為により、成田氏系図・成田記全体が、
学問的には偽書として、全否定される形になってしまいました。史料として排除される状況になったのでした。 これはつまり、
学問的思考停止状態に陥った訳です。おかしなことですね。
この状態のままでは、何故800年もの間、成田四家を含む成田氏系図伝説が、延々と伝え続けられて来たのか? 、またどうして、
代々の熊谷市や行田市界隈で、更には新編武蔵風土記稿の編者までもが、この伝承を強く信じて来ているのか?も、その理由が、
まるで理解出来ないのです。
そこで私は、吾妻鏡の中の成田氏系登場人物を抽出し、それ以前の保元物語での登場人物と比較することによって、成田氏系図
伝説に隠されていた、源頼朝の意図を明らかにして来ました。すなわち、私が今まで述べて来た推論の積み重ねによって初めて、
成田氏系図伝説の真の姿が明らかになったものと思われる訳なのです。(この項了)

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