いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。
新しい年の1回目のブログになります。新年初日から能登の大地震、日航機
の大炎上と、今後の前途多難を予感させる一年の始まりとなりましたね。
そういえば、近所の初詣でのおみくじも、末吉でした。やっぱりなあ、、、
さて前回は、消えた箱田氏の謎について、自説を述べさせて頂きました。
続いて今回は、同じく消えた?、別府小太郎清重の謎について、考察をして
みたいと思います。以前から、成田氏系図の別府氏はおかしいと、書かせて
頂いておりましたが、一体 何が、おかしいと言うのでしょうかね?
違和感のひとつ目は、成田氏系図が後代(江戸期)の作であるにも拘らず、平家物語や源平盛衰記で有名になった、別府小太郎清重や、父親である
別府義重、更には西別府の安楽寺に墓石のある、別府頼重などの名前が、
成田氏系図には、まったく出ていない点なんです。後代の作なのですから、
加えようと思えばいくらでも出来るハズなのに、敢えて書いていないのです。このことは、新編武蔵風土記稿の編者も、
東西別府村の章で指摘していますよね。まあもっとも、成田氏系図の方が正しい、との立場からの指摘なんですけどね。
その理由は、平家物語や源平盛衰記などは、創作物語りであり、登場人物の名前も架空のものだ、という思い込みです。
と言うことは、西別府の安楽寺に現存する、南北朝期の墓石の、墓碑銘まで架空・作り物だ、と言うのですかねえ?、、
逆に吾妻鏡などは、彼らにとって、幕府公認の無謬の歴史書である、と言う信念になるのです。でもねえ、別府氏の墓の
墓標に名前が記されながら、後代作の系図にその名前が無いなんて、あり得るんですかねえ? ですから、このことが、
別府氏について、私の第一の違和感なのです。そして次の違和感としては、成田七郎助綱らと同じ世代の時代に、別府氏
の所領が、兄弟相論(争い)により東西に分割され、領主が二人?になっている点なのです。更にはその分割の証拠には、
怪しい頼朝の下文「関東下知状」(集古文書)なる文書、が関与している点も含めて、なんです。大体が、兄弟の領地争い
ぐらいで、頼朝や幕府の問注所が登場すること自体が、おかしいのです。それもたかが下級御家人である別府氏で、ですよ!
自分の領地内の兄弟争い?なのですから、父親(家長)の裁定で充分完結するハズなんですよ。それが何故か、頼朝の裁定
(下知状!)により、東西別府郷?に分割されている訳です。どうして皆さん、この点を疑わないのですかねえ?、、、
やはり頼朝の下文?の権威、なんですかねえ? しかもその別府氏は、戦国末期の豊臣秀吉の北条小田原攻めによって、
成田氏と共に、別府長清・顕清父子の代に滅びるまで、ずっと続いていたのですよね? 別府長清・顕清父子の名前は、
成田氏系図にはちゃんと載っています。戦国期の別府城跡も現存しています。でも何故かまだ解せないのですよ、、。
その理由とは、成田氏系図での別府氏の代数が解せないからなんです。兄弟相論の時代は頼朝の時代とされていますので、
1190年代と考えられます。で滅亡した長清・顕清父子の時代が1590年です。つまり400年間を成田氏系図は、僅か12代で
繋いでいるのです。次の嫡子まで33年もかかっている計算になります。平和な現代じゃあるまいし、鎌倉・室町の戦乱の
時代に、1世代33年は、明らかに長すぎるのですよ。ですからこの点も解せない(おかしい)のです。
このような違和感に対し多くの解釈は、成田氏系図自体がインチキだからである!、と言う見解なのだろうと思います。
Wikipediaなどでは、成田氏系図の信ぴょう性には疑問があると、一刀両断ですわね。まあ、偽書扱いですわ、、、。
でもこの段階で、皆さん思考停止してしまっているのですね。ですから、違和感に対する回答が、全く出て来ないのですよ。
これでは何故、成田氏系図が数百年にも渡り、地元熊谷で伝承され続けて来たのかも、理解出来ないでしょう。私は何故、
このような系図伝承が作られ、代々伝承されて来たのか?を、まずは考えるべきだと思います。 そのように考えると、
違和感に対する理由や回答も、自然と見えて来るハズなのです。偽書だ、として無視しちゃあいけないのですよ。
私の見解は、成田氏系図の伝承は、源頼朝の意向により作られたのだろう、と言う考えです。つまり前回までの箱田氏や
別府小太郎清重の痕跡を消すために、系図伝承は作られた、と考えるのです。頼朝の目的は、義経との痕跡を消すためです。
でも頼朝や鎌倉幕府が、ここまでして、義経の痕跡を消そうとすること、皆さん理解が出来ませんかね? では例えばですが、
現在の香港で、天安門事件の記念碑が、中国政府によって徹底的に消されていること、ご存知ですかね? 香港や中国本土で、
天安門事件は、無かったことになっているのですよね。 私は、これと同じだろうと思っていますけどね、、。
このように考えると、上記の違和感が全て氷解するのです。具体的に見て行きます。前回の箱田小太郎広貞は、頼朝から
長門守頼道の名前を与えられ改名しました。これにより義経の家臣であった痕跡を消すことが出来ました。ところが、別府
小太郎清重の方は、簡単に改名させることは難しかったと思われるのです。何故なら、一の谷合戦での伝説が有名になり、
名前が広く知れ渡っていたからです。それで吾妻鏡の上洛凱旋者名簿には、別府(小)太郎そのままの名前が、記載されて
いる訳です。しかし頼朝としては、この別府氏が、将来に渡って義経の家臣として世間から崇敬される事態は、何としても
阻止したかったハズなんです。そこで考え出されたのが、成田氏や別府氏の家系図伝説の改ざんだったのです。改ざんの内容
としては、成田氏や別府氏の先祖を四兄弟として、まず成田四家を作りました。これにより、別府氏の独自性が否定されます。
また、成田氏以前の箱田氏も、兄弟として組み込みました。何故か近隣の、奈良氏や玉井氏も巻き込まれましたがね。更に、
成田七郎助綱と同時代の別府小太郎清重の痕跡を消すために、別府氏に架空の兄弟を作り出し、村の領地を東西に二分割した
ことにしたのです。証拠は、元久元年(1204年)の関東下知状ですね。(まあこの時点で頼朝は既に死んでいるのですが、、)
しかも実際に村の分割は、実施されていませんよ。思い出して下さい、新編武蔵風土記稿にもある通り、別府郷が東西別府村と
下増田村に分割されたのは、正保年間(1644~1648年)以降のことで、それ以前はずっと一つの別府郷だったのです。 つまり、
実際の別府郷は、別府義重・清重の時代からずっと、南北朝期の別府頼重を挟んで、別府長清・顕清まで、本当はひとつ系統で
続いていたのです。当主の名前には代々、重や清の字が採用されています。ですから成田氏系図上の架空の名前は、重や清の字が
ないので、すぐに判ります。しかし、改ざんしたのは、あくまで成田氏系図ですからね、別府氏系図の改ざんじゃあないんです。
この点がミソで、別府氏側とは全く関係のない?、成田氏側だけの勝手な改ざんなんです。
多分このような形で、系図上の名前を隠すことによって、実在の別府清重を、良く判らない日陰の存在にしたのでしょうね。
すなわち、成田氏系図の原型は、頼朝と鎌倉幕府によって形作られたのです。決して江戸後期の成田長任が独自に創作した代物
ではありません。成田家内で、代々伝承されて来たのです。それが証拠には、江戸前期に、新井白石が各家の伝承を聞き書きした
「藩翰譜」にある成田氏は、後代の成田氏系図の内容と、ほぼ同じ内容ではありませんか。成田家側はこの家伝を、後生大事に
伝え続けて来た訳なのです。何故なら頼朝と鎌倉幕府が命じたことだからです。しかしながら、書かれた別府氏の側が、この家伝
の内容を、全面的に了解していた?とは思えないのです。多分、別府氏の立場としては、成田氏系図に描かれている別府氏系図は、
別府氏側としては、あずかり知らぬ存在である、という認識だろうと思われるのです。とは言え別府氏は、成田氏の家臣であった
訳です。ですから、その別府氏側としての意地の部分が、時おり垣間見られるのが、あの「旅宿問答」(続群書類従に収録)の
別府氏についての記述なのではないか?、と思えるのですがね、、、 成田氏系図に追従しつつも、別府氏の独自性も主張している
訳なんです。でもまあ、今となっては、全て謎のままです。しかし私にとってはこれらの見方は、腑に落ちる解釈なのですよ。
で、このように、熊谷市出自の、箱田氏や別府氏のその後を見て参りますと、必然的に、あるひとつの結論が導かれるのでした。
この結論こそが、今回のテーマ「保元物語に登場の、成田氏や奈良氏のその後は?」を、吾妻鏡を用いて、様々な角度から調べて
行く中で、遂に発見した意外な真実だったのでした。いよいよ今回のテーマのまとめ、です。(次回へ)

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