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保元物語に登場の、成田氏や奈良氏のその後は?Ⅹ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

今年もあとわずかになりました。白内障手術の術後経過は順調ですが、

煩わしい点眼作業は相変わらずです。4種類の点眼薬なんですが、医者

から、5分間隔で点眼するように言われているからです。なので一回の

点眼で、15分以上かかってしまうのです。これが一日4回なんですよ。

 

 さて前回は、山口県山陽小野田市にある、惣社八幡宮の由来書から

その後の箱田氏の痕跡を発見し、この箱田氏が、成田氏系図で成田

七郎助綱の兄とされる成田広能のことなのではないか?、という推論

を書かせて頂きました。このように仮定すると、成田氏系図の言い訳

に、色々合点がいくのでした。そこで今回は、この成田氏系図の言い訳について、私の仮説を元に検討して行きたいと思います。 

 

 まず成田氏系図が、成田広能(箱田右馬允)を成田氏後継者である

成田助綱の兄であるとしている点は、箱田氏の旧領を、成田氏が相続した行為を正当化するための細工であろう、

と思われますね。早世した兄?の領地を弟が相続しても、不自然ではないからです。名前を広貞から広能に変えて

いるのは、長門国の箱田広貞とは別人である(箱田氏とは関係ない)と、言い張るためでしょうね。

保元の乱?の際に、門司で?戦死した?とすれば、兄の土地を相続したことも不自然ではなくなります。まあ文句は

出ないだろう、という考えでしょうね。源平合戦を保元の乱へ、軍功を挙げたことを討ち死にした、と改ざんしたのは、

義経の家臣だった箱田氏の痕跡を消すための小細工ですね。どうせ遠い長門国へと移住してしまったのですから、誰にも

判らないと思ったのでしょう。ですから系図改ざんの目的は、継承した箱田氏領を、元々成田氏領であった、と言い張る

目的です。更には、源義経の痕跡を消すために、箱田氏の痕跡をも消し去ろう、という頼朝・鎌倉政権側の意図も、当然

働いていたものと、思われるのです。ですから吾妻鏡には、義経の戦功や箱田氏についての記述が、一切ないのです。

 

 その意味でこの系図改ざんは、単なる系図の改ざんだけではなく、熊谷市に存在した箱田氏の痕跡まで消すという行為が、

ある種公然と鎌倉政権公認の元、様々な場面で行われたのだろうと思われます。そのひとつが、箱田小太郎広貞の頼朝に

よる、箱田長門守頼道への改名だったのです。また更には、文治五年(1189年)7月19日の奥州出陣時に成田七郎助綱が、

鎌倉での出陣式に、初めてお披露目参列出来たのも、箱田氏の痕跡を消し、後任である成田氏の地位を引き上げるための

作為だったのだろうと、私には思われるのです。吾妻鏡における成田氏の初出です。ちなみに、同時期を描いた平家物語

での成田氏などは、一の谷合戦の際に、熊谷直実と平山季重の先陣争いの中で、ひょっこり現れる端役(成田五郎)として

描かれています。まあ、吾妻鏡でも成田七郎は、ひょっこり現れて来たんですけどね。しかし後世の成田氏の子孫達は、

この箱田氏を消した新しい成田氏系図伝説を、逆に正しいものとして信じたのです。なんたって幕府公認!なんですから。

(江戸期 成田長任による成田氏系図成立以前の、言い伝えとしての成田氏系図伝説の、部分完成ですね。)

この成田氏系図の言い伝えの伝統が、後世の藩翰譜や、新編武蔵風土記稿の編者にまで、強い影響を及ぼしているのです。

 

 現在では、熊谷市箱田の地名は一部復活していますが、江戸期には箱田の地名は消えていました。新編武蔵風土記稿には、

上(之)村として書かれています。上之村の小名の中にも箱田の地名はありません。逆に上之村の西隣りに、上之村新田 

として、小さな箱田村が書かれていますが、この新編武蔵風土記稿の書き方も、箱田の地の特定を混乱させる元凶になり

ました。実際には本来、上之村の大部分が箱田の地名だったからです。もっとも戦国期以前の成田氏時代は、近隣村全体が

成田郷でしたけど、だから上之も箱田も無いのですが、平安末期には既に、箱田の地、成田の地が存在していたのです。

その地名を名乗ったのが箱田氏や成田氏ですからね。私は、成田氏初代、成田助隆(成任)とされる人物の祖地は、上之村

全体ではなく、上之村内の小名(字)に残っていた成田の地(熊谷市上之字成田)だけ、だったのだろうと思っています。

また、箱田村については、新編武蔵風土記稿の編者が言うように、江戸期正保年間以降に上之村より分村した村なので、

それまでは箱田村など存在しなかったのです。それでも上之村の中で箱田の地名は、ずっと残り続けていたようなのです。

ですから現在では、箱田村ではなかった上之村の部分にも、箱田の地名が飛び地のように復活して来ている訳なのです。

(※現在の熊谷市中西1~3丁目や末広1~4丁目、宮町だって、元々は箱田の地名ですよ。)

つまり箱田氏の名前は消せても、箱田の地名を消し去ることは出来なかったと、解釈出来るのではないでしょうかね?、、

誰が?ですか?、成田氏と頼朝・鎌倉幕府が、です。つまり成田氏系図の伝承とは、彼らのごまかし努力の結晶なのです。

 

 こうしてめでたく?長門国に栄転を果たした箱田氏ですが、惣社八幡宮の由緒書きによると、応永十年(1403年)には、

箱田氏は、大内氏によって滅ぼされてしまったようです。応永の乱後の、大内盛見と広茂兄弟の相続争いで、でしょうね?

滅亡していますので、多分大内広茂の側に付いたのでしょう。で箱田氏は、領地の長門国厚狭郡から落ち延びたようです。

現在、箱田姓の多い地域を、名字由来netさんで全国検索してみますと、広島県福山市と福岡県福岡市に、何故か箱田姓が、

比較的多く存在していることが判ります。どうしてなんでしょうかね?

この結果から、箱田氏の末裔が、厚狭郡(山陽小野田市)の東西に分かれて、落ち延びて行ったことが判るのです。しかも

大内氏以外の領地への脱出です。これは、戦国末期の九戸政実の乱で敗れた奈良氏(大湯氏)が、鹿角から南部領を避けて、

津軽と秋田の地に分かれて逃れて行った状況と、非常によく似ていますね。(次回へ)