いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。
白内障手術で両眼に眼内レンズが移植され、2週間が経過しようとして
おりますが、現在は30㎝~2mぐらいの距離で、ピントが合っています。
でもそれ以外の範囲では、焦点がぼけているんです。(単焦点レンズ)
早く眼鏡を作って、車の運転も出来るようになりたいと思っています。
さて前回は、建久元年(1190年)頼朝の上洛凱旋パレードの名簿に、
保元物語では成田氏といつも一緒に登場していた、箱田氏の名前が無い
ことを指摘させて頂きました。でもこれって、それほど重要なことなん
でしょうかね? 実は私、これが大変重要であると考えているのです。
今回は、この箱田氏の消えた重要性を、検証してみたいと思います。
以前のブログから申し上げている通り、私は熊谷市内の各氏族の中で、
最も古くから続く氏族は、箱田氏であると考えています。その理由とは、
弥生時代から平安末期へと連続する館の遺構が発掘されているからです。
古くからの土地名である、熊谷市箱田地区の館跡遺跡なので、箱田氏館跡と呼ばれている訳なのです。
しかしながら、この箱田氏については、歴史・文献上では、ほとんど知られていない、謎の存在だったのでした。
一方、成田氏の本拠地?とされる上之からは、平安末期の遺構などは、何も出土していないのです。こう考えると、
仮に成田四家が同族関係であったとしても、本来ならば成田氏ではなく、箱田氏の方が、本家筋の立場であったハズ?、
なのです。しかしながら、成田氏系図でも吾妻鏡の記述を見ても、熊谷市内氏族での序列トップは、成田氏(七郎助綱)
であろうと思われる書き方です。で更に吾妻鏡の記述では、保元物語には登場していた、箱田氏の名前が、何故か消えて
いる訳なんです。その消えた箱田氏を、成田氏系図の伝承と、武蔵七党系図の横山党説から、探ってみたいと思います。
まずは成田氏系図の側から箱田氏を見てみますと、成田太郎助広の子で、成田七郎助綱の兄が、成田小次郎広能
(=箱田右馬允)であるとあります。つまり兄でありながら、何故か成田氏を継がずに、箱田氏を名乗ったことに
なっています。何か少しおかしいですよね? また成田氏系図の伝説によると、この成田小次郎広能=箱田右馬允は、
保元の乱で、源義朝に従って上洛し、後に門司!で討ち死にしたのだそうなのです。ああそれで、弟の成田七郎助綱が、
成田氏の跡を継いだのですね。そして箱田氏も消えてしまったのだろうと?、、、
まあこのような説が、成田氏系図伝説の中では、広まっていたようです。でもこれって、すごく不自然なお話しだと
思われますよ。まずは名前です、箱田姓の方では、右馬允という官職名が付いていますよね?、これは権威付けです
から普通は、古い家系などによく見られます。二代前?に創設したばかりの成田氏と、どうも釣り合わないのですよ。
更には時代です、保元の乱(1156年)では、父親の成田太郎助広が、源義朝に従い、箱田次郎と共に奮戦しています
よね。(保元物語)しかし成田小次郎広能(箱田右馬允)は、成田太郎助広の子なのですよね?、すると時代が合い
ません。だって、同じ兄弟である成田七郎助綱の方は、34年後の頼朝上洛パレードに参加しているからです。
まあ仮に、保元物語の箱田次郎と、成田広能=箱田右馬允が同一人物だとしても、門司で討ち死に!とは、一体
何なのでしょうか?、だって保元の乱とは、京都での戦乱ですよ。敢えて何かをごちゃまぜにしている印象なのです。
その意味で、箱田氏についての成田氏系図側の伝説は、実に怪しい、良く判らない記述なのです。それで成田氏系図
に依拠する新編武蔵風土記稿の編者も、上村の三郎社の項で、土地の伝承で箱田氏の始祖、箱田三郎(某!)を祀った
神社らしいが、良く判らない存在であると書いている訳です。
そこで今度は、武蔵七党系図の横山党説(埼玉県史)から箱田氏を見てみますと、横山(小野)資孝の子成任が、成田を
名乗った最初とされている訳なのですが、この横山(小野)資孝の三男が箱田を名乗り、箱田氏の祖、箱田三郎となった
のだそうです。時代ははっきりしませんが、敢えて成田氏系図側の初代成田助隆と、初代成田成任を合致させてみますと、
箱田三郎も平安末期の人物のようです。で、成田成任(助隆)と箱田三郎は、兄弟同士の関係だ、ということになります。
そうすると、保元物語に登場する成田太郎と箱田次郎は、それぞれの子、いとこ同士だったと言えるのかも知れません。
更にそう考えると、頼朝の上洛時点でも、成田太郎の子である成田七郎助綱に対応する、箱田次郎?の子は、いなかったの
だろうか?、という素朴な疑問へと、つながって行く訳なのです。
で、今回の掲示写真は、熊谷市内の箱田神社にある、箱田三郎を祀ったとされる三郎社の石祠の写真です。地元では
この石祠が、三郎社の遺物であると言う認識は無かったようで、やはり地元の英雄である、斎藤別当実盛の子供の墓だ?
と伝えられていたようです。この三郎社の存在は、新編武蔵風土記稿の上村(箱田村ではなく!)の中に、三郎社の
記事があることから知られていますが、新編武蔵風土記稿の編者は、箱田三郎某?という書き方で、良く判らない存在
だったようです。江戸後期当時の三郎社は、円明寺の管理となっていましたが、現在ではその円明寺も既に存在はせず、
三郎社の存在は、全く判らない状況になっていたのでした。 しかしこの石祠が三郎社の遺物であること、また現在の
箱田神社が、その円明寺の敷地であったことを再発見したのは、暗闇検校さんの功績であろうと思います。
詳しくは、暗闇検校さんのブログを、ご確認下さい。(まだ世間的には、あまり知られていませんがね、、)
この三郎社の再発見によって、単なる伝説上だけではなく、箱田三郎や箱田氏の存在が、より明確になったのでした。
こうなると、箱田氏のその後が気になります。どこかに箱田氏の痕跡はないのでしょうか? と、探していますと、
意外な場所で、意外な記録を発見したのでした。何と武蔵国から遥か遠い、長門国(山口県)の厚狭郡(山陽小野田市)
の、惣社八幡宮という神社で、だったのです。この山陽小野田市は、下関市の隣の市です。つまり、壇ノ浦のすぐ近く、
と言う事です。そしてこの神社の由緒書きには、「文治三年(1187年)2月11日に、源頼朝が、鎌倉の鶴岡八幡宮の
御分霊を勧請して、長門国の宗廟として創建し、箱田長門守頼道を大宮司職に補任し、厚西、豊東、豊西三郡を私領
として宛行った(あてがった)。」とあり、何と箱田長門守頼道、という名前があるではありませんか! また更には、
「また、寺社証文に記載の当社社伝には、厚西郡(旧厚狭郡)の地頭、箱田小太郎広貞が、源平の合戦の時、源義経の
手に属し、壇ノ浦で軍功を立てたので、源頼朝がこれを賞して、長門守頼道と改名させ、社職に補し、」ともあります!
遂に、その後の箱田氏についての痕跡が発見されたのです。またこの由緒書き、神社の由緒書きにしては、極めて具体的
ですよね。年月日も記載されていて、且つ元々、長門国と何の縁もない箱田氏の名を、わざわざ捏造する理由も無いので、
逆にリアリティの高い記述内容になっているのです。がしかし、文治三年(1187年)の吾妻鏡には、このような記述は
当然ありません。しかもこの年の2月時点では、上司の義経は、頼朝の探索から全国各地を逃げ回っている状況なのです。
つまり箱田氏の名前の登場は別として、この由緒書きの記述も、やはりどこかおかしいのです。これは一体、どのように
考えたら良いのでしょうか? 思い出して頂きたいのは、吾妻鏡が義経の功績を、否定ではなく、意図的に消し去って来た
ことなのですが、、、(次回へ)

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