いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。ようやく気候が冬っぽく、寒くなって来ましたね。しかし寒く
感じられるのは、何も気温が下がって来たからだけ、ではありません。電気代やガス代、石油代などの暖房費の高騰によって、
皆さん暖房費を節約・我慢するようになったので、より寒く感じられるようになったのです。ついこの間までは、いかに涼しく
過ごすか?の工夫を考えていた訳ですが、今週からは、いかに暖かく過ごすか?の工夫を、考えなければならないようです。
ちょうど良いと感じる、心地よい季節などは、もはや無くなってしまったようですね。
前回は吾妻鏡の中でも激動の、1185年(元暦二年・文治元年)でした。源義経による屋島合戦、⇒壇ノ浦合戦を経て、平家が
滅亡し、その直後から今度は、平家討伐の功労者である義経が、頼朝によって謀反人に仕立て上げられる経緯を見て参りました。
本来は奈良氏や成田氏の動静を調べるため、武蔵国出自の武士達の吾妻鏡登場を探していたのですが、前回は何故か、義経に
ついての記述だけに注目して、見て行ったのでした。恐るべきは、頼朝の嫉妬心、猜疑心、というところでしょうかね?
で今回は、翌1186年(文治二年)から、再び武蔵武士の動静を抜き出して行きたいと思います。が、その前に、前年の1185年
なんですが、実は重要な武蔵武士の、意外な再登場があったのでした。6月16日の記述なのですが、掲示左写真の左側頁奥です。
その再登場人物とは、前年に丹波国の三十三間堂の寺領で押領・略奪を行ったため、後白河院から院宣によるクレームを受けた、
あの玉井四郎資重なのですよ。こりゃびっくりです。何でも今度は、尾張国での悪行の噂だそうです。丹波国からの配置換えは
されているようですね。しかし吾妻鏡に2度も名前が登場するとは、悪名とは言え、大したものだと思いますよ。それだけ鎌倉
でも悪名が高かったということです。鎌倉からの使者が送った召喚状にも応じず、暴言を吐いているそうです。鎌倉幕府官僚で
ある藤原俊兼から、今度やったら御家人の身分をはく奪するぞ、との通告を受けたようです。
しかしこの玉井四郎、御家人の身分をはく奪された形跡はありません。それは後の記述から判明するのですが、その記述までは、
もうしばらくお待ち下さい。
と言う訳で翌年の1186年(文治二年)になるのですが、この年の記述は、逃げた義経の捜索経緯ばかりの記述で、特に見る
ものはありません。で、更に翌年の1187年(文治三年)に進みますと、3月5日の記述で、ようやく義経が奥州平泉で発見され
ます。これから奥州での義経探索が始まる訳ですが、同時にまだ、平家追討時の戦功の詮議も続いているようです。第一の戦功
者が謀反人にされているのにねえ、、で、その記述は、3月10日なのですが、壇ノ浦合戦での戦功を巡って、夜須七郎行宗と、
梶原景時が御前で争っています。その時証人として呼び出された武士の名が、春日部兵衛尉でした。結局彼の証言により、夜須
七郎の正しさが認められたのでした。この春日部兵衛尉は、埼玉春日部市を拠点とする春日部氏の祖と言われているそうです。
しかしそれ以外の武蔵武士の登場はほとんどなく、8月4日の記述で、熊谷次郎直実が再び登場しているぐらいです。と言う訳で
1187年(文治三年)も終り、翌1188年(文治四年)に進むのですが、この年は、ほとんど奥州藤原氏と義経追討のための準備に
費やされています。ですから武蔵武士も、3月15日の記述で熊谷小次郎の名が隋兵のひとりとして登場しているぐらいです。
そこでいよいよ奥州征伐となる、1189年(文治五年)に進みます。4月19日には戦の名目が、義経の追討から、奥州藤原氏の
征伐へと変わります。そして4月30日には、頼朝の奥州征伐を逃れるため、藤原泰衡の襲撃により、義経は討たれてしまいます。
結局仲間に裏切られたのですねえ、、5月22日には義経誅殺の報が、鎌倉に到着します。更に6月13日には、藤原泰衡の使者に
より、義経の首も鎌倉に到着します。泰衡は鎌倉に誠意を尽くすんですがねえ、、でも残念ながら、奥州藤原氏征伐へ突入です。
6月24日の記述で頼朝は、奥州追討軍で使用するための「御旗」を準備させています。しかし自分勝手に、奥州征伐を進める訳
にも行きませんので、軍備を増強しながら、朝廷からの院宣を待っている状況なのでした。6月27日の記述では、鎌倉に志願兵
が、続々と集結している様子が描かれ、更に頼朝からは、奥州討伐軍の順路となる武蔵国と下野国の住人(兼業武士)は、軍の
隊列に加われ、とする命令が発せられました。これにより、武蔵国の兼業武士団(下級御家人)の多くは、この討伐軍に加わった
ものと思われます。その証拠も、後の文書で明らかになります。
7月16日の記述では、都より、奥州出陣を延期せよ、という後白河の院宣を持参した使者に対して頼朝は激怒し、必ず出陣する
ぞと、伝えています。そして遂に7月19日、奥州に向け、頼朝は鎌倉を出陣したのでした。しかし出陣時の兵力は、吾妻鏡を見る
限り、せいぜい数百人程度で、古参御家人とその郎党だけだったようです。で、掲示の右側写真をご覧下さい。7月19日記述の、
出陣武士名簿の最後部分です。登場している武蔵国の武士としては、豊島氏や葛西氏、江戸氏、足立氏、大井氏、中条氏と熊谷氏、
横山氏、塩屋氏ぐらいです。つまり、土着の兼業武士団は、まだこの時点では、鎌倉部隊に合流していないことが判るのです。
しかしこの鎌倉出陣時の有力御家人名簿の中に、何故か良く見知った名前が、ひっそり隠れていたのです。最後の方ですがねえ、
何と成田七郎助綱、阿保次郎實光の名前があるではありませんか!、ご確認下さい。これは大したものだと思いますよ。鎌倉内では
下っ端とは言え、鎌倉出陣御家人名簿に名前を連ねているから、なんです。世間的にはほとんど知られていない、成田氏や阿保氏
なんですが、間違いなく存在していたことが、証明されているのでした。後代、秋田鹿角郡の鹿角四頭(地頭)として、奈良氏や
秋元氏と共に名前を連ねる成田氏、阿保氏の、歴史上の初出と言っても良いとも思われます。また成田七郎助綱とは、33年前の
保元の乱(物語)に登場した、成田太郎の子供であるとも考えられます。つまりこの成田氏は、保元の乱から文治五年まで、御家人
としてずっと生き延びて来たらしいと、考えることが出来るのでした。まあしかし、私はこの成田氏、室町・戦国期の成田氏とは
異なるだろうと、ずっと思っていますけどね。まあ私に言わせればこの成田氏とは、熊谷市内出自の箱田氏の後継なんですけどね。
さて頼朝の奥州追討軍は、順路の武蔵・下野で土着の兼業武士団(奈良氏等含む)が合流して、奥州藤原氏との合戦にのぞみ、
勝利したのでした。一方の藤原泰衡の敗因は、頼朝の狙いは、奥州征伐ではなく義経追討だろうと勘違いした点、また院や朝廷が、
頼朝の奥州出兵を、思い止めてくれるハズと、信じた点にあるように思えます。が、8月22日には平泉が落ち、8月26日には、逃亡
した泰衡から命乞いの書状が届きますが、頼朝が許すハズもありません。9月3日には泰衡は討ち取られ、遂に奥州藤原氏は滅亡した
のでした。その後早くも9月20日には、戦後処理の一環として頼朝は、合戦の戦功を確認し、恩賞の下文を多数与えています。
我妻鏡には書かれてはいませんが、私はこの時、下級御家人である成田氏、阿保氏、奈良氏、秋元氏に対しても、鹿角郡の地頭職を
与える、という頼朝の下文?、又は言質が、その時にあったのであろうと考えています。
頼朝軍は、9月28日には平泉を出立し、10月24日に鎌倉に帰還しています。後は戦後処理の記録ですので、1189年(文治五年)は
終り、翌1190年(文治六年)へと進みます。(次回へ)



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