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保元物語に登場の、成田氏や奈良氏らのその後は?Ⅳ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

 

 関東も、昨日からようやく寒くなって来ました。が、地球温暖化の

影響は恐ろしいほどです。一昨日までは半袖Tシャツでしたからね、

多分今年の冬は、北日本でも雪無しの冬になりそうな予感ですね。

 

 前回は、吾妻鏡の1185年(元暦二年・文治元年)を読み進めながら、

特にあの玉井四郎資重の押領・狼藉に対する後白河の院宣!について、

見て参りました。玉井四郎だけが、この年の唯一の吾妻鏡登場だった

からです。しかしこの年とは、2月19日の屋島合戦から、3月24日の

壇ノ浦の合戦、平家滅亡へという、時代の大激動点だったのでした。

と同時に、源義経が、平家追討の大英雄から、源頼朝によって、あっと

いう間に逆賊にされてしまう、大波乱の年でもあった訳なのです。

せっかくの吾妻鏡ですから、少し玉井氏や奈良氏、成田氏らの動静調査

から離れて、義経の悲劇の要因について、吾妻鏡を見て行きたいと思います。

(あまり武蔵武士の活躍が、吾妻鏡に載っていないので、、)

 

 今回の掲示絵図は、有名な那須与一の扇の的です。1185年屋島合戦での名場面ですわね。

しかしこのお話し、平家物語と源平盛衰記の方には出ているのですが、吾妻鏡には何故か

まったく出て来ません。その理由は、まあ史実ではないから?、なのかも知れませんが、

私はもう一つ理由があると思います。それは義経を美化したくないと言う、後の北条氏側の

意図です。吾妻鏡は記録書とは言え、同時代に編纂されたものではありません。当時の記録を

元にして、後代の北条氏によって編纂された文書です。つまり、後に謀反人にされる義経側に

立った記述は出来ないのです。ですから中立を装いながら、義経への悪意を散りばめることに

注力しています。屋島合戦が起きたのは、2月19日なんですが、吾妻鏡の2月19日の記述にも、

屋島合戦が描かれているのです。でもこれ、鎌倉日記としてはおかしいのです。だってこの時点の

鎌倉では、屋島合戦の状況は時差のため、まだ知られていないからですね。義経からの報告書が

鎌倉に到着したのは、3月8日のことです。しかもその報告書は、戦況の途中報告で、まだ平家を

打ち破ったとは伝えていません。しかも、その翌日着の源範頼からの報告書では、範頼の義経に

対するクレームが散りばめられています。つまり吾妻鏡は、義経が屋島合戦で勝利した史実を、

うやむやにして記述している訳なんです。屋島合戦など、義経軍は僅か150騎ですから、決して

大規模な戦闘ではなかった訳です。ですから平家物語などでは、那須与一の扇の的など、細かい

戦いの描写?になっているのです。ところが吾妻鏡では、事務的文書でもあり、且つ義経の戦でも

あったので、わざと簡単な記述に留めて、義経の功績を消し去っているのですよ。

さらに吾妻鏡は、壇ノ浦⇒平家滅亡へと続く記述の中で、義経への悪意も広げて行ったのでした。

で、その那須与一なんですが、Wikipediaなどでは、吾妻鏡には登場していない、と言われている

のですが、後の建久元年(1190年)11月7日の、頼朝上洛凱旋パレードの名簿の中に、那須三郎

(後陣32番)という人物名が出ているのです。もしかしてこの人、那須与一じゃないのかなあ?、、

 

 さてその後、武蔵武士の登場は、3月14日に、鬼窪郷(埼玉県白岡市)の武士、鬼窪小四郎行親が

源範頼への使者として登場しているぐらいです。(範頼への使者ばかりだなあ、、)なので武蔵武士の

捜索の予定を少し離れて、吾妻鏡での義経への悪意の変遷の方を、日を追って見て行きましょうかね。

 

 2月19日の屋島合戦から、翌3月24日にはすぐに、最後の壇ノ浦合戦が始まっています。そして

あっけなく勝負は決し、4月4日には、義経の使者が、平家追討を後白河院に報告しています。

義経の使者が鎌倉に到着・報告したのは、4月11日なのです。地理的に、京都の方が近いとは言え、

義経は平家滅亡を、まず後白河院に報告している訳です。私はこのことが、頼朝が義経に不審を

抱いた最初ではないか?と思っています。頼朝からすると、義経の主君は誰なんだ?、後白河院じゃ

ないだろう?、という思いですね。つまり、勝手に朝廷に報告するなど、越権行為だと思った訳です。

そして、頼朝の怒りが決定的になったのが、4月14日に 後白河院の近臣、高階泰経の使者が到着して、

朝廷側の感謝を、頼朝に報告している訳なんですが、その感謝のしるしが、平家追討軍の武士達への

官職の贈呈だった訳です。しかしこれも頼朝からすると、越権行為な訳です。本来は、頼朝の推挙を

受けてから任官されるべきと、考えていたからです。朝廷側としては、良かれと思って行った行為が、

逆に頼朝の逆鱗に触れてしまったのですね。翌4月15日の記述では、頼朝の怒りの様子が書かれています。

しかし本来、怒りの矛先は、勝手に任官した朝廷に向かうべきなのですが、頼朝の屈折した怒りは、何故か

任官を受けた御家人達へと向かうのでした。まだ、下級御家人に当たり散らしている段階なんですけどね。

しかしやがて、その怒りは、平家追討軍のトップの人物への怒りに変わって行ったのでした。義経への不審

が決定的になったのが、4月21日記述の、梶原景時からの義経に対する誹謗の報告書到着です。梶原景時には、

屋島合戦出陣の際に、義経に出し抜かれた(功を奪われた?)との恨みがあったように思えます。

これにより頼朝は、4月29日に、義経には従うな、という指示書を送っています。これは多分、義経への

忠告書?・脅し?でもあったように思えます。ですからこの時点では、殺害までは考えていません。しかし

その後、5月4日の記述で、義経を謹慎処分にしたので義経の指示には従うな、とする指示書を、梶原景時宛て

送り、翌5月5日の記述では、義経の罪は許しがたいと書いています。頼朝の中で、義経への怒りが更に大きく

なっていることが判ります。そこに5月7日付で、義経の起請文が到着しましたが、頼朝は信用出来ず、火に

油を注ぐ結果になってしまったのでした。ですから5月15日に、平家の首級である平宗盛を義経が鎌倉に護送

している、との報告を受けても、義経を鎌倉には入れず、腰越に留め置く指示を出したのです。有名な腰越状も

効果なく、9月には、例の梶原景時を使って義経の謀反を調べさせて、遂に義経追討を決意することになるの

でした。思うに多分頼朝は、朝廷との仲が良くて若い、義経を恐れたのでしょうね。(次回へ)