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ガザの戦争が激しさを増しています。複数の対立軸の出現により、欧州も一枚岩
ではなくなりつつあります。国連でも従来の多数派が、崩壊しつつあります。
今後は世界中どこでも、戦争や紛争が起きる予感です。それは、第三次世界大戦?
と言うよりは、新たな戦国時代の到来、なのかも知れませんよ。
保元物語に初登場した、武蔵の武士団氏族、成田氏・別府氏・奈良氏・玉井氏ら
の、その後の痕跡を、鎌倉幕府の記録書である吾妻鏡の中に、見つけ出そうとして
おります。今回は元暦元年(1184年)9月からです。源範頼と源義経の鎌倉軍が、
木曽義仲軍を打ち破り、義経軍が京都に進駐している状況です。平家軍の方は、
一の谷(神戸)で敗れ、現在は讃岐国の屋島で、軍の立て直しを図っています。
そしていよいよ吾妻鏡にも、成田氏らの四氏族の名前が、遂に登場しそうですよ。
と、その前に、9月14日の記述で、武蔵国出自の有力御家人、河越重頼の娘が、京都に駐留している源義経に
嫁ぐために、鎌倉を出発した、との記事があります。私、義経の妻は静御前だとばかり、勝手に思っていたので、
ちょっと意外でした。しかし河越重頼は、この義経と舅の関係から、翌年には、頼朝によって誅殺されてしまった
のでした。NHK大河ドラマの、鎌倉殿の13人での義経描写とは、ちと違うようですわね。
で、さていよいよ、成田四家?の一族が登場する、9月20日の記述になります。掲示写真左ページを御覧
下さい。二十日日付の後、いきなり登場するその名前は、玉井四郎資重です。1156年の保元の乱で登場した
玉井四郎から28年後の玉井四郎資重ですので、子供でしょうかね? だとすると、代々玉井四郎を名乗っている
ことになります。しかしあるいは、同一人物かも知れませんね。仮に二十歳で保元の乱を迎えていたとすれば、
48歳ですから、あり得ないことでは無いとも思えます。で内容は、彼の蛮行を咎める後白河院の院宣(クレーム)
が、頼朝の元に届いた、と言う記事なんです。具体的内容とは、丹波国一宮出雲社近辺(京都府亀岡市千歳町)は、
蓮華王院(三十三間堂)の寺領であり、地頭など存在しないにも拘らず、鎌倉殿の下文(許可証)があるとか言って、
この地で玉井四郎資重が押領(略奪)を行っている、何とかしろ!、という訴えの院宣なんです。
すごいですねえ、でも私、大したものだと思いますよ。だって、後白河院に院宣を出されるぐらいですからねえ、、
多分、義経軍の一員である玉井四郎資重の兵達は、この辺りに駐留していたのでしょうね。もちろん玉井四郎資重は
ひとりではありません。武蔵国幡羅郡玉井郷を代表して参陣しているのですから、当然複数人な訳です。玉井四郎
資重は、玉井グループの代表者名なのです。でグループでは当然、食料が必要になる訳で、近所で押領(略奪)を
行う訳です。前の木曽義仲の進駐軍も含め、実はみんなやっていることなんです。少し後には、有力御家人である
梶原景時の兵たちも、淡路国で同様の押領(略奪)を行っています。しかしたまたま押領した先が、三十三間堂の
寺領(後白河院の権益?)だったため、運悪く、後白河院の逆鱗に触れてしまったのですわね。
だって他の武士達だって、みんな押領(狼藉)をやっているので、翌年3月4日の記述では、畿内での狼藉を止めさせる
ため、2名を派遣したと、藤中納言(藤原経房)宛てに頼朝が、釈明の書状を送った、とされていますからねえ、、、
それが何故か、玉井四郎資重だけ?が、院宣!の形で、後白河院の叱責を受ける形になってしまったのでした。
で、関東武衛=頼朝は、これに恐縮して、すぐに押領を止めさせるように指示を出した、との記述です。がしかし、
本来であれば、院宣が出たとなれば、玉井四郎資重は、打ち首になってもおかしくないハズなのですが、そうなった
気配はありません。鎌倉からの指示は、せいぜい「押領しちゃダメよ、」程度の甘い内容であったろうと思われます。
何故なら、この玉井四郎資重、少し前の一の谷合戦では、平氏政権の幹部、平通盛を討ち取る軍功を挙げているから
なんです。吾妻鏡の方には、特に何も書いていません。しかし同時期を描いている平家物語(小宰相身投の段)では、
玉井四郎が、近江国住人、佐々木・木村三郎成綱ら7人とともに、平通盛を討ち取ったと、書かれているのですよ。
氏族名が混乱しているのは、名も無い下級兵士(兼業武士)だったからです。そう玉井四郎資重の名前も、平家物語
での登場では、玉井四郎資景という名前に、少し変わっているのですがね。いずれにせよ、同一人物だと思われます。
でも、下級武士とは言え、首級クラスの平通盛を討った7人の中で、佐々木・木村三郎成綱と、武蔵国住人、玉井四郎
資景の名前だけが、平家物語に登場している訳ですから、それはやはり、大したものなのですよ。でありながら、
吾妻鏡には、玉井四郎資重の悪い記述はあるのに、どうして平家物語にあるような、武功の記述はないのでしょうか?
私、この理由は、玉井四郎資重の兵達が、源義経軍の一員だったからだろう、と思っています。後に義経は、頼朝により
叛逆者にされていますからね。ですから吾妻鏡としては、義経一味の所業を、良く書くことは出来なかったのですよ。
しかし玉井四郎資重は、ちゃんと活躍していたのですよ。何故ならその後も何度か吾妻鏡にも登場しているからなんです。
ですから、後白河院の院宣にも拘らず、多分きついお咎めは無かったであろうと、思われるのです。逆に院宣を出された
ことにより、玉井四郎資重は、鎌倉内でも、有力ではないにしても、有名武士にはなったのであろうと思われるのです。
さてこのように、吾妻鏡に意外な登場をした玉井氏なのですが、奈良氏や成田氏の登場は、どうなのでしょうかね?
私は、玉井氏以外の成田氏や別府氏、奈良氏も、多分一緒に活躍していただろうと思っています。その証拠は、吾妻鏡の
後日の記述で明らかになるのですよ。とは言え、まずは吾妻鏡の記述から、武蔵国の武士の名前を、追いかけましょう。
元暦元年の10月以降は、12月7日の記述で、平行盛の軍に挑み、馬で海を渡った佐々木三郎盛綱の家臣に、熊谷四郎の
名前が見られます。熊谷次郎直実の子なのでしょうかね?
他には武蔵国の武士たちに、これと言った動きは見られませんので、翌、元暦二年(1185年)に移ります。(次回へ)

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