いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。遂に、イスラエルと
ハマスの戦争も始まってしまいました。いよいよ第三次世界大戦の様相になって
来ました。つまり、今まではウクライナ対ロシアだけの対立軸で、世界中がどちら
に付くのかを争っていたのが、イスラエル対ハマスの登場により、対立軸が複雑化
して、世界中の多くの民族が参戦する可能性が出現したのです。怨念ですよ。ウク
ライナ対ロシアに加え、西欧対イスラムの対立です。残るはアジアだけですが、、
さてタイトルが変わり、保元物語での初出から続く、武蔵国の武士団、成田氏
や別府氏、奈良氏、玉井氏等の、その後の活躍を、別な史料からも見つけ出して
行きたいと思います。 保元物語から続くのは、鎌倉幕府の公式記録文書である
吾妻鏡や平家物語です。以前も申し上げましたが、保元物語の次の平治物語には、
成田氏や奈良氏の登場シーンは無いので、続く史料として、吾妻鏡を取り上げる次第
なのです。特に吾妻鏡は、保元物語と異なり、一応は記録文書ですから、同時期の
平家物語などの軍記物語と比較しても、同時代史料としては、多少は信頼性は高いと
思われるからです。また平家物語などより、何故か成田氏、別府氏、奈良氏、玉井氏の
登場シーンが多いのですよ。そこで吾妻鏡を読み進めながら、武蔵国の武士登場場面を
拾って行きたいと思います。この作業によって、彼らの本当の実態が明らかになるのでは
ないか、と思われるからなのです。実際、ほとんど知られていませんからねえ、、、
保元物語は、保元の乱(1156年7月)の顛末を描いている訳ですが、吾妻鏡の方の記述は、
治承四年(1180年)から始まっています。保元の乱から24年後ですから、大体一世代後ぐらい
ですかね? まだ鎌倉幕府成立前ですので、ぎりぎり平安時代末期で、平清盛政権の時代です。
で、吾妻鏡の最初の記述は、源頼朝による最初の戦い、石橋山の戦いから始まっています。
この辺りの記述は、当時の記録というよりは当時の記憶の記述です。ですから、平家物語など
との比較の中で読み進めて行きたいと思います。がしかし、吾妻鏡の最初の頃の登場人物は、
後に鎌倉幕府の有力御家人になる有名氏族ばかりで、武蔵国の田舎武士団は、いまだ登場して
おりません。武蔵国出自の武士として早くから登場しているのは、平家方の江戸氏や河越氏ら、
有名氏族だけです。石橋山の敗戦の後、頼朝が平氏追討の兵を集める中で、ようやく少しずつ
豊島氏や、葛西氏、足立氏などが頼朝方に参集して来るようになります。(が各氏とも、まだ
平家方・源氏方、どっちに寝返るのか判らない状況のようですがね、、。)
この頃の頼朝方とは、鎌倉を拠点(アジト)とする反政府勢力、と言った状況です。ですから
この頃の彼らの戦いとは、反政府勢力側の支配地域を拡大するための戦い(局地戦)であったの
でした。でもこの年(1180年)から、御家人達による鎌倉の都市建設が、開始されていますので、
鎌倉幕府の公式記録とされる吾妻鏡では、治承四年が鎌倉政権の成立年になっている訳なのです。
このような状況の中で、熊谷市に関連する武士として最初に登場するのが、治承四年(1180年)
11月の、常陸国佐竹氏追討の際の熊谷二郎直実です。後に平家物語で、平敦盛を討ち取った場面
「敦盛の最後」で有名になりました。しかし彼は、熊谷市在地の兼業武士ではありませんからね、
諸国を転戦する専業武士(頼朝の家臣)ですから、元々有名武士だった訳です。一時期、武蔵国
の熊谷郷を領有したことによって、熊谷直実になった訳です。まあそれでも、直実の武勇伝の方は、
すごかったようですけれどね。
翌年治承五年(1181年)の記述は、しばらく西国での出来事が続きますが、2月の末頃には、
頼朝の叔父で常陸国の志田義広と頼朝方の小山朝政との、野木宮合戦が勃発したと書いています。
しかし寿永二年(1183年)の記述もあり、ハッキリしません。いずれにせよこの頃は、関東地域
における、頼朝派の勢力拡大期であったとは言えると思います。ただこの治承五年の記述の中で、
武蔵国の人物の描写があるのは、7月の初めに、鶴岡八幡宮の建築工事のために、武蔵国浅草の
大工を鎌倉に呼び寄せた事例ぐらいです。また、同年7月には、元号が改元され、治承から養和に
変わっています。
翌、養和二年(1182年)に入ると、1月28日の記述で、伊勢神宮に奉納する神馬の奉納者として
武蔵国の有力武士、江戸太郎重長、河越太郎重頼の名前が出て来ます。江戸氏や河越氏は新興の武士
ではなく、元々武蔵の地で郡司や荘官をしていて、財力のある有力者だったのでした。
その後の同年5月には、養和二年を改め、寿永元年に改元されています。
その年の寿永元年6月5日の記述では、またまた熊谷二郎直実が登場します。その内容とは、いとこの
久下権守直光(熊谷市久下郷の領主)との、熊谷市熊谷郷をめぐる領地争いの、頼朝による裁定の件
なんです。何と同じ熊谷市内での領地争いですね。結果は、熊谷直実の熊谷郷の領有を認める裁定でした。
まあ直実には、佐竹氏追討時の戦功がありますからね。多分、この裁定でようやく、熊谷二郎直実は、
正式に熊谷姓を名乗ることが出来るようになったのでしょう。
まあ狭い地域での領地紛争ですわね、また親戚同士ですからね。しかし頼朝による裁定にも拘わらず、
いとこ同士の熊谷市内領地争いは、その後もまだ続いたようなんですけどね、、。
寿永元年(1182年)も終わり、続いて寿永二年(1183年)の記述になるハズなんですが、記録が欠落
していて存在しません。時代としては、木曽義仲が平家に代わって京都に進攻するあたりです。年末には、
源義経・範頼の鎌倉軍が、都に迫って来ています。そのような状況の中で、翌寿永三年(1184年)に入り
ます。ようやくそろそろ、武蔵国土着の兼業武士団氏族も、吾妻鏡に登場するようですよ。(次回へ)

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