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10月に入り、ようやく涼しくなって来ました。コメや野菜などの農作物の収穫は、
順調に行われるのでしょうかね?これまでの猛暑の影響はどうなのでしょうかね?
現在、野菜は凶作で、大高騰しているようですがねえ、、、
さて前回は、藩翰譜などの家伝史料は、史実至上主義の観点からでは解明は出来
ないのだ、という意見を述べさせて頂きました。史実とは、過去の人々の心の反映
を含みます。時代により心の解釈が変化すれば、史実と言われる事象でも、がらり
と風景が変化するのですよ。意味を伴わない史実など、あり得ないと思われます。
で、江戸期まで語り継がれて来た成田氏の始祖伝説についてです。この伝説は、
室町後期に、成田氏が忍の大名領主になる過程で、領国支配のために、保元物語を
流用して作られたものであると申し上げました。成田氏は、単に保元物語の登場
人物を、成田四兄弟として始祖伝説に結び付けただけのことなのです。これが成功
した秘密とは、当時の情報伝達の仕組みの方にあったのでした。
ネットもマスコミも無い時代に、どうして保元物語や平家物語が、当時の日本全国津々浦々に
広く伝わったのか?、を考えると良く判ります。よく誤解されるのが、書物による伝播説です。
しかし保元物語等が書物で流布したのは、木版印刷技術の発達した近世江戸期以降のお話しです。
書物自体は、古代から存在はしていましたが、多くは仏教書や公家文書でした。何故なら当時、字が
読めたのは、貴族と僧侶ぐらいだったからです。武士や農民には、書物など必要のない代物でした。
その後武士の世になってから、武士も読み書きが必要になり、出来るようになったのです。と言う訳で、
鎌倉・室町期に、保元物語や平家物語を全国に広く伝えたのは、数多くの琵琶法師達だったのでした。
旅芸人琵琶法師の全国行脚によって、保元物語は広く伝わったのでした。法師と言うぐらいですから
本来僧侶なのですが、仏教説話では食べて行けないのですよ。そこで人気演目、保元物語や平家物語を
口演して回った訳です。当時の琵琶法師は、マスメディアの役割も担っていました。他国のニュースの
報道者、歴史伝道教師でもありました。ですから琵琶法師による口演は、文字の読めない武士・農民層
にとっても、娯楽であると同時に、社会勉強でもあったのでした。保元物語や平治物語、平家物語が、
世間に広く広まった理由は、宮中内の混乱、今で言えばゴシップネタだったからです。これを判り易い
物語り形式にして琵琶法師が上演したので、爆発的な人気になったのです。どの琵琶法師が上演しても、
ほぼ同じ内容だったのは、台本があったからです。現存している古い保元物語や平家物語の書物とは、
琵琶法師向けの台本だったのだろうと思われます。僧侶は文字が読めますからね。琵琶法師による口演は、
太平記の流布の頃には、法師(僧侶)の役割から、講談師の仕事へと変わって行きます。講談の誕生です。
で、どうしてこうも長々と、琵琶法師による保元物語の伝播について説明するのかと言うと、当時の状況を
理解するためなのです。琵琶法師による保元物語の上演中に、成田太郎、別府次郎、奈良三郎、玉井四郎の
名前が登場する訳です。ご当地キャラみたいなものですから、地元の聴衆は、やんやの喝さいを送る訳です。
彼らが四兄弟なのだと言われれば、信じない訳がないのですよ。ウソがマコトになった訳なのです。
こうして成田四兄弟伝説とともに、その父である成田助隆伝説の方も、確固たるものになって行ったのでした。
まああくまでも、武蔵国の幡羅郡・埼玉郡界隈での現象なんですけどね。(領国支配のためですから、)
しかしこの単なるご当地ローカルキャラが、全国ネットで上演され続けたことによって、成田氏家伝の方も
信ぴょう性を増し、結果として信頼されるものになって行ったのです。(新編武蔵風土記稿で引用されるほど、)
しかし、成田氏や別府氏、奈良氏、玉井氏らの氏族名は、保元物語の流布によって広まった、登場人物としての
氏族名ではありません。元々、当地では良く知られた氏族名だったのです。ですから知っている氏族の名前が登場
して、やんやの喝さいを受けた訳なのです。但し、保元物語は所詮、物語りです。当然脚色されていると見て良い
のです。ですから私は、四兄弟の下の名、太郎・次郎・三郎・四郎の名については、信頼性は低いと考えています。
あれは、琵琶法師が保元物語を暗記する際に、覚えやすく暗唱しやすくするために、付けた名であろうと思います。
しかし保元物語の全国普及により逆に、奈良氏や玉井氏では、代々の当主が、三郎や四郎を名乗るようになりました。
ではこの四氏族、四兄弟伝説とは無関係だとすると、実際の彼らはいったい何者だったのでしょうかね?(次回へ)

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